1968(昭和43)年12月12日、市村の最後の事業となった「新技術開発財団」の設立が正式に認可されました。市村が亡くなるわずか4日前のことでした。
人生の終わりが近いことを感じた市村は、最後の仕事として、これまでに築いた財産を日本の将来を担う科学人を育成するために使いたいと切望、その意を受けた舘林三喜男はじめ三愛会の役員たちが財団の設立に向けて奔走したのです。
『将来にわたってわが国が繁栄するためには、すばらしい創意工夫を育成し、研究開発を行うことにより、これを実社会に役立たせるとともに、諸外国に先んじて技術革新による新分野を醸成開拓することが最も重要であると確信します。この観点にたって、市村清氏の提唱により本財団を設立し、技術革新に即応した新しい技術社会の基盤を造成し、もってわが国の経済社会の発展と国民生活の向上に寄与せんとするものです』
これは新技術開発財団設立趣意書にある一文ですが、日本の未来を見据えた市村の思いが見事に結実したといえましょう。
市村の遺言により、個人所有の全有価証券が財団に寄贈され、その後、幸恵夫人の有価証券等も遺贈されて、これらを財団運営のベースとして、新技術開発や地球環境研究など科学技術の研究開発、優れた科学技術の顕彰や国際交流の促進、少年少女の創造性の育成、植物研究等々に対する助成などを展開してきました。
また、遺贈された大田区の私邸は財団の本部として、熱海の別荘「清恵荘」は植物研究園に改修されて緑の保護と生成のための研究の場として利用されています。
(2018年4月1日、「公益財団法人市村清新技術財団」に名称変更。設立趣意書に表したように、わが国の経済社会の発展と国民生活の向上に寄与するための活動を継続)