市村が大河内正敏博士の招へいを受けて理化学興業(株)感光紙部長に就任してから3年後の1936(昭和11)年2月、感光紙部を分離して「理研感光紙株式会社」が設立され、市村は代表取締役専務に就任しました。
これがリコーの“はじめの一歩”です。
当時、大河内博士の率いる理研コンツェルンは大小合わせて43の企業を擁し、発展の機運にありました。中でも理研感光紙の躍進は目覚ましく、工場支店を建設して業務を拡張、感光紙部門で全国生産の90%を占める一方で、光学部門を新設して光学機器、カメラなどの新分野へ事業を拡大していきました。
1938(昭和13)年、「理研光学工業」に社名変更。
太平洋戦争によって理研コンツェルンのみならず日本の企業のほとんどが大打撃を受けました。しかし、不幸中の幸いというべきか、理研光学工業は大河内博士の英断によってコンツェルンから独立し、市村独自の企業に転じていたため、戦後の財閥解体の波に飲み込まれることなく、復興の道を歩み出すことができました。
独占禁止法等により感光紙の生産も一時は戦前の10%程度までダウンしますが、1949(昭和24)年に業界1位の座を奪還。また、1950(昭和25)年には二眼レフカメラの名作「リコーフレックスⅢ」を発売して、理研光学は感光紙とカメラを2本柱とした企業体制を整えました。
その後、ジアゾ複写機「リコピー101」や国産第1号の静電複写機「電子リコピー BS-1」などのヒット商品も生まれ、より強固な企業となっていくのです。
1963(昭和38)年4月1日、「株式会社リコー」に社名変更。市村は、カタカナ3文字、英文表記「Ricoh」の新社名を“簡潔でしゃれている”と大いに気に入り、大衆に愛される企業としてますます成長することを願うのでした。