1899(明治32)年創業の高野時計製作所は、1938(昭和13)年に名古屋に工場を新設して、高野精密工業株式会社と社名変更しました。
戦後は朝鮮戦争の特需の恩恵などもあって中京地区唯一の精密機器工場として好調を示していましたが、1959(昭和34)年、伊勢湾台風で工場が1カ月半も操業停止となり、次第に経営難となりました。
高野精密の再建方法を模索する中京財界は、時の通産大臣佐藤栄作をはじめとする政財界の要人を介して、市村に協力を要請。最初は多忙を理由に固辞していた市村でしたが、精密工業の将来性に夢を託して経営を引き受けることにしました。
最大の課題は、強固な労働組合との折衝でした。クビ切りをやるつもりかと詰め寄る労組の幹部たちに市村は、「経営不振は経営者の責任であり、従業員に罪はない。経営陣は辞めさせるが、従業員は一人もクビにしない。管理職の人事は君たちの投票で決める」と断言して、納得させたのです。
1962(昭和37)年8月、「リコー時計株式会社」と社名を変更し、新たなスタートを切りました。そして、半年足らずで「ダイナミック・オート33」や女性用の「19石ハミング・カレンダー」等々を発売。リコー時計はたちまち時計業界の注目の的になり、会社内にも活気があふれて、再建は成功したかに見えました。
ところが「好事魔多し」の言葉通り、1964(昭和39)年の後半期に景気後退に加えて品質面でのトラブルが発生し、再び経営危機に陥りました。周囲からの絶望的との声にも、市村は「引き受けた仕事を途中で投げ出すことはできない」と再再建を決意。企業体制を再構築して技術部門を強化し、さらに販売方針を輸出重点に切り替えた結果、1966(昭和41)年2月に発売した新製品「リコー・ダイナミックワイド」に海外からの注文が殺到し、リコー時計は見事に息を吹き返したのでした。
(1986年、「リコーエレメックス株式会社」に社名変更)