昭和40年代初め、リコー再建という難事業に取り組み始めた市村は、それと並行して、佐賀放送の創設準備、東北リコーの創業、大阪万博への出展参加決定など他の分野の拡大にも猛然と取り組んでいました。
その一つが社内外の反対を押し切って購入した銀座6丁目のビル「リコー三愛ビル」(地上9階、地下3階)で、市村はここをグループの“総本山”にしたいと考えていました。
「今度買ったビルでグループ所有のビルは6つになった。新しく買ったビルはリコー三愛グループの拠点にしようと思う。わが系列会社にこのビルのフロアを貸し、ビルの管理、仲介、土地の売買をやらせる。上がる利益で立派に不動産会社の運営はできるし、再建途上のリコーにもプラスになる。だから、新たに不動産会社をつくろうと思う」
当時、世間の目は不動産業には冷たい時代でした。しかし市村は、遠からず不動産の時代、リゾートの時代が来ると見通していました。日本は貿易にスポットが当たり始め、所得倍増の波に乗って不況から脱出、それに伴って東京に本店や支店を新設したり土地を探し始める企業が増えていたからです。
「ビルの各階をフロア別に貸すだけで、地価の高い銀座だけに十分採算がとれる。さらに仲介、土地の売買ができるようになれば、不動産会社は大きな利益を上げるはずだ」
市村は計算し尽くしていたのです。
1967(昭和42)年8月8日、「三愛不動産株式会社」設立。
これが市村の事業経営の最後の会社となりました。
(1995年、「リコー三愛サービス株式会社」、2011年、「リコークリエイティブサービス株式会社」に社名変更)