第9回

北九州地区での販売権を獲得

日米コカ・コーラボトリング

1961(昭和36)年、コカ・コーラの原液が自由化となり、日本の原液工場として東京に日本コカ・コーラ株式会社が創設されました。

その原液を使って製品を製造し、販売する会社(ボトラー)については、全国を16のテリトリーに分けてフランチャイズ制にすると発表され、九州地区でいち早く名乗りを上げたのが、福岡で遊戯業を営んでいた佐渡島匡男でした。しかし、佐渡島は “契約者は日本の代表的な企業または産業人であること”という条件をクリアできませんでした。

それでも佐渡島は諦めきれず、何度も懇願を重ねるうちに、その熱意にほだされた日本コカ・コーラのモス社長から、地域の著名な産業人を代表者として再申請するようにとのアドバイスを受けました。そこで白羽の矢を立てたのが市村でした。

「私は男の意地からもこの事業をやりたいんです。企業の主導権についてはすべて市村さんにお任せします」

佐渡島のひたむきさに心を打たれたものの、契約などの煩わしさを考えて二の足を踏む市村の背中を押したのは、周囲の熱心な勧めとアメリカ側の厚意的な姿勢でした。モス社長は、リコーの市村なら喜んで契約すると明言していたのです。また、新しい事業を興して、若い人たちに働く場所を提供してあげたいという思いも湧き上がってきました。

1962(昭和37)年3月、「日米飲料株式会社」の取締役社長に市村が就任し、コカ・コーラの北九州地区の販売権を獲得。翌年、「日米コカ・コーラボトリング」と社名変更し、福岡工場が稼働を開始しました。

「アメリカ人はコーヒーだのコーラだの色の付いた飲み物をよく飲むそうだ。最近の日本人は何でもアメリカ人の真似をするから、あの褐色の飲み物も爆発的に売れるに違いない」

市村の予測通り、日米コカ・コーラは年々倍増の販売成績を上げ、日本を代表するボトラーとして発展していきました。

(日本のコカ・コーラボトラーは吸収合併、統合、商号変更の歴史を繰り返し、その変遷の中で日米コカ・コーラも北九州コカ・コーラボトリング、コカ・コーラウエストジャパン、コカ・コーラウエスト等を経て、2018年、全国規模の統合により「コカ・コーラボトラーズジャパン株式会社」に商号変更、リコー三愛グループから退会する)

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜