1960年代半ば、わが国は高度経済成長期にありました。リコーでも、1967(昭和42)年に発売した電動式計算機「リコマック201」が、輸出拡大の機運に乗って国内販売のみならず海外輸出も順調に推移。そのため、東京・大森工場では生産が追いつかず、新工場の建設が喫緊の課題となっていました。
時を同じくして、産業開発が発展途上であった東北地方の活性化策の一つとして、工場誘致が宮城県などを中心に積極的に進められていました。
ある日、市村と面談した宮城県の高橋県知事は、ややズーズー弁まじりの口調で誘致を懇願しました。
「東北人はリコーさんの社名のような“利口”ものではありませんが、一生懸命働くのが取り柄です。市村さんが来てくれるのなら、県・財界は全面的に協力します」
その誠実さと熱意に打たれた市村は、地方の工業界の発展に寄与したいと考え、また東北人の真面目で粘り強い気質を高く評価して、宮城への工場進出を決意しました。
1967(昭和42)年7月11日、リコーの電動式計算機工場として「東北リコー株式会社」を設立。操業開始に向けて、インフラ整備から始まるすべての準備が急ピッチで行われ、まったくの農村地帯であった宮城県柴田町に、市村の信条である自然との共生を目指した“環境にやさしい最新鋭工場”が完成したのです。
翌1968(昭和43)年3月、工場の稼働開始。この月に入社した第1期生たちの高い意欲と徹底した社員研修が結実して、短期間で生産体制が確立され、4月には早くも東北リコー製造の「リコマック201」が初出荷されました。そして、操業1年目にして経常利益を上げることができ、市村の地方進出は無事軌道に乗ったのです。
従業員はすべて地元からの人材を採用するなど、東北リコーは地方分散型事業経営の先駆となり、“地方の時代”の幕開けにふさわしい第一歩を踏み出したといえましょう。
(2013年4月、国内の設計・生産機能の再編に伴い「リコーインダストリー株式会社」(生産機能)と「リコーテクノロジーズ株式会社」(設計機能)とに経営統合し、現在に至る)