敗戦直後、明治神宮は参拝者もなく、すさみ果てていました。
1947(昭和22)年夏、明治神宮再建に力を貸してほしいと依頼を受けた市村は、神宮の森に焼失を免れて立つ憲法記念館の建物を見ているうちに、一つのアイデアがひらめきました。
「結婚式場はどうだろうか。戦争が終わって、外地や疎開先から人々が帰ってくる。若い人たちの結婚も急増するに違いない。それなのに荒廃した東京には結婚式場などどこにもない。もしここに大衆にも利用できる結婚式場や披露宴会場を開いたら、どんなに喜ばれるだろう」
しかし、事業として成功するかどうかは未知数ですから、重役会は猛反対。市村は、損失が出た場合は個人で責任を負う覚悟で建設事業まで引き受けたのです。予想に反して、結婚式場・明治記念館は大成功を収め、真冬や真夏の結婚オフシーズンには、宴会や同窓会などの会合にも使われるようになって、繁盛を続けたのです。
「事業というものは、儲けようとすればおのずと限界がある。けれども、道に即してやれば、自然に儲かるものであって、その利益は無限大だ」。市村清の経営哲学の一項目「儲ける経営より儲かる経営」は、このときの経験に基づくものでした。