三愛精神の提唱
proposal
三つの愛のハーモニー
第2次世界大戦が日本の敗戦によって終わりを告げ、10年にわたる戦雲が頭上からうち払われたとき、私どもの前に残されたのは、いずれも荒涼たる焦土と化した祖国であった。戦争にはやむを得ざる必然性があったにしても、国を挙げてその遂行に狂奔したとどのつまりに残された現実は、あまりにみじめな、民衆の受けた惨害の痕跡であった。
私がその焦土の中でいち早くサービス部門に事業の活路を探ろうと裁断したのは、肩にかかった数百の復員社員たちの働き場所を求めるためもあったけれども、大きく見れば、これからの世界には「平和」につながる企業でなくては存在の意義を持たぬと考えたからであった。
いったい人類はなぜこんなに深刻な闘争を繰り返すのであろうか。
人と人との争い、集団と集団との争い、他の国を滅ぼして、自分の国の繁栄を図り、他の民族を奴隷化しておのが民族の優位を狙う、こうした勝つか負けるか、食うか食われるかという道だけが、人類の生きる術なのであろうか。あれこれと考えて、私はようやく「愛」こそがこれから私がやる仕事の根幹でなければならぬと結論したのである。まず、「人を愛する」ことである。自分さえよければという考えは徹底的に放逐しよう。
人を愛することは、生活が豊かでなければできない。それにはやはり「勤めを愛する」ことだ。楽しく働ける環境がなくて豊かな生活が築けるはずがない。仕事は嫌だけれど、給料をもらうから勤める、妻子を養わなくてはならないから仕方がなく勤める。―少なくとも私の事業ではこの観念を打破してやろう。こう考えて、「勤めを愛する」という一項を挙げた。
仕事には創意工夫を凝らしてやれ、と言っている。創意を働かせれば仕事はだんだんに面白くなる。楽しいものなら自然に身も心も打ち込む。こんな幸せはない。仕事に打ち込んでいる人間の姿は非常に神聖である。そういう人は同僚や下僚からは尊敬されるし、上からは信頼され、自分自らは精神的にも向上するし、仕事そのものの技術も熟達する。
どんどん抜てきされて職場の地位が上がれば生活も余裕ができるから、他人のことを考え人を愛することもできるようになる。個人としてそこまでいけば、やがて社会に対する愛となり、「国を愛する」精神につながることは間違いない。これを要約すれば、勤めを愛する気持ちを持ったとき、人を愛し、国を愛する心が生まれ、それが戦争というような人間悪の極致現象をなくすもととなるのではないか。
これが、私の「三愛主義」であり、サービス部門の仕事を始めたとき、その店に「三愛」と名付けたゆえんなのである。どうすれば世の人がお互いに幸福になれるか、どの道をとればお互いに豊かな生活ができるか。事業の内部外部を問わず、私は事業経営によってこの大命題を追求したい。単なる利潤追求ではなくて、その底に何かヒューマニズムの流れる事業家たることを信条としているのである。またその信条こそが、真に事業を繁栄させる根本だと断言してはばからないのである。
(『そのものを狙うな』より抜粋)