市村清ゆかりの人物
  市村幸恵

ゆかりの人物「市村幸恵」について
ご紹介します。

市村幸恵プロフィール

生没年1898年1月29日~1988年1月8日

市村との関係市村清の妻

佐賀出身、医院を開業していた松岡玄雄の末娘。後に、三愛の社長に就任。

心を許せるもっとも身近な存在

ゆかりの人物の最終回は、妻・幸恵の後編だよ。幸恵がいつ何時もそばにいてボクのことを信じてくれたことは、ボクにとって心の安らぎとバイタリティーになったんだ。ボクの成功は幸恵がいてくれたからこそと思うよ。

夫を支えた内助の功「市村清の陰に幸恵あり」

熊本での保険外交が成功し、佐賀に戻ってから、二人の人生は良い方向へと転がり始めました。
理研感光紙九州総代理店「吉村商会」の開業、大河内正敏博士の招へいによる理化学興業感光紙部長就任と独立、さらに戦後の事業拡大と市村の快進撃が続き、それに伴って幸恵もお金の苦労から解放されていきました。
ところで、市村は父親の血を受け継いだせいかお金には案外無頓着でしたが、幸恵は心配性の堅実派でした。
苦しかった熊本時代が忘れられなかったのか、それとも生来の締まり屋なのか、大実業家の妻という立場になってからもつましい生活でした。
到来物の菓子折りなども大事そうにしまい込むので、忘れてしまわないだろうか、傷んでしまわないだろうかと、周りの方が気を揉んでいたという、笑い話のような逸話も残っています。
少し話が逸れますが…
市村が友人を誘って伊豆・川奈にゴルフ旅行に出かけた時の出来事です。
幸恵は急な用事ができて、市村たちの宿泊先であるホテルに電話を掛けました。
「社長さまはただいま奥さまとコースを回っておられます」
奥さまと? 幸恵はピンときました、“どこかの女性を連れて行ったに違いない”
翌朝、再び電話を掛けます。
「今、熱海の別荘に来ているんですが、急用ができました。お楽しみのところすみませんが、すぐに帰って来ていただけますか」
なんだか様子がおかしい、芸者を連れて来たのがバレたのだろうか、市村は冷や汗が出てきました。
「分かった、すぐ帰る」
市村が別荘に着いた時、幸恵は庭で草むしりをしていました。市村はすぐに着替えて、草むしりを手伝い始めましたが、幸恵は無視したまま。無言の時間が1時間、2時間、3時間と流れていきました。
「あんなにつらい思いをしたことはなかったな」とは、後の市村の弁。
「最後になってくると、やっぱり女房が一番命がけで力になってくれるということですね。40年も一緒に生きてきたということもありますが、女房が一番よく知っていてくれるということです。ことに僕は浮気もしたりして、本当に申し訳なく思っております。ぜひ一つ、奥さんのことを大事にされることをお願いしたいと思います」
(1966年12月、日本経営出版会記者との対話「人を支える厚意」より 『市村清実践哲学』収録)
話を戻しましょう。
金銭の悩みがなくなった幸恵にとって、最大の心配事はやはり市村の健康でした。
市村は1961年春、胃の半分を切り取る胃潰瘍の手術を受けましたが、約2か月で全快し、それからの数年間は勢力的に新事業を展開し、銀座4丁目角に三愛ドリームセンターも完成させました。市村の生涯において、最も華やかな時期であったといえましょう。
しかし、1963年秋頃から漂い始めた不穏な空気が徐々に広がって、グループの要であるリコーの業績も悪化、1965年、初の無敗転落を経験しました。さらに社会的詐欺事件にも巻き込まれて、市村は苦悩の中で次第に健康を害していきました。酒や睡眠薬の力を借りても眠れず、自殺を考える日々が続きます。
「おい、幸恵、万一ということもあるかもしれない。最悪の時のことを考えておいてくれ」
「あなた、自殺でもなさるおつもりですか。あなたを頼りにして一生懸命やっている皆さんのことも考えねばなりません」
必死に励ましながら、幸恵自身も不安でたまりませんでした。
幸いにも新製品「電子リコピー」が完成して大ヒット、リコーの再建は急ピッチで進み、わずか2年半で復配を実現しました。
しかし、ホッとしたのもつかの間、病魔が市村に忍び寄ってきていました。
1968年初夏、体の異常に気付いた時には食道がんがすでに肝臓にまで転移しており、余命2、3か月の宣告。幸恵は本人には病名を告げないで希望を持たせ、最後まで明るく寄り添うことを決意したのです。
1968年12月16日早暁、市村の心臓の鼓動が止まりました。
「医学解剖をさせていただきたいのですが・・・」
慶応病院から申し出がありました。
「私は医者の娘です。医学の進歩のためなら喜んで・・・」
そこには悲しみも涙も隠して応える、リコー三愛グループ総帥・市村清の妻の凜とした姿がありました。
翌年、幸恵は株式会社三愛社長、リコー三愛グループ役員に就任、また社会事業にも深い関心を示すなど、市村の遺志を継いで、残りの人生を会社のため、社会のために捧げました。
1988年1月8日、死去、享年89歳。
市村清の陰に幸恵あり。実業家・市村清の成功は幸恵の内助の功を抜きに語ることはできません。
市村清 藍綬褒章受賞 総理官邸にて(1961年12月)
市村清 藍綬褒章受賞 総理官邸にて(1961年12月)

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市村幸恵

以下のページでも市村幸恵について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜