市村ツ子(つね)は1873(明治6)年、佐賀県三養基郡白壁郷市原(いちばる)在の北原源一郎の次女として生まれました。北原家は村に2軒あった庄屋の1軒で、財力も格式も市村家よりかなり上層の家柄であったと思われます。
1892(明治25)年、19歳の時に6歳年上の市村豊吉と結婚しました。
豊吉・ツ子夫婦は、女3人、男4人の子供を授かりましたが、長女は数え4歳で病死、3女は嫁いだあと長崎の原爆に遭遇して死去、3男は事故の後遺症で18歳で夭折しました。
次女のタイは佐賀市の原口家の養女となり、のちに長男・清と深く関わり合うことになる原口英雄と結婚しました。次男・勝市、4男・茂人は、後年、ともにリコー三愛グループの経営陣に加わり、兄の清を助けました。
夫の豊吉は折り紙つきの変わり者。「食い過ぎて体を壊したやつはいても、食えなくて死んだ者はそういるもんじゃない」というのが口癖で、仕事らしい仕事もしないのですから、家の切り盛りをするツ子の苦労は並大抵のものではありませんでした。
けれども庄屋の育ちだけに性格は素直で愛情にあふれ、愚痴をこぼしながらも身を粉にして働き、豊吉の大言も適当に聞き流しながら、一家を支えていました。
ツ子の唯一の楽しみは三味線でした。芸事の盛んな土地柄の佐賀で、娘時代から学校より三味線を習いに通う方が好きだった彼女は、「そんな河原こじきの真似事はやめてしまえ」と怒鳴る夫の目をかすめてはつま弾き、うさを晴らしていたのです。
「ばかもん」
どすの利いた怒鳴り声で清は目を覚ましました。そっと隣の部屋をのぞくと、ちゃぶだいがひっくり返り、やかんや急須、湯飲みが畳の上に散乱する中で、豊吉が仁王立ちになっています。
「あんたが悪いんです」
ツ子の引きつったような甲高い声・・・。
言い争いは一層激しくなり、“バシッ”という鈍い音がしました。豊吉がツ子の頬をたたいたのです。豊吉の額に青筋が浮き、髪を振り乱したツ子の顔は蒼白。口論が一瞬止んだと思うと、ツ子が家を飛び出して行きました。清は弟妹たちを抱きしめたまま何もできず、いつまでも震えが止まりません。
明日食べる米がない、それが夫婦げんかのもとでした。育ち盛りの子供たちを抱えた市村家は、わずかな田畑の収入ではどうにもならないほど追い込まれていたのです。
いつもおとなしく、夫に従順なツ子がこれほど激しく反抗したのは、後にも先にもこの一度だけで、貧苦の悲哀が幼い清の胸底に強烈に突き刺さりました。
清、小学2年生、8歳の時の出来事です。
「母さんの頼りは清だけだよ・・・」
普段は気丈なツ子ですが、時々、耐えられなくなると涙ながらにつぶやきました。
「僕は今にきっと強くなって、必ずお母さんを幸福にしてあげます」
この言葉の通り、母を1日も早く幸福にしてあげたいと思う一念が、その後の清の大きな原動力となったといえましょう。
晩年のツ子は、子供たちに支えられてお金の苦労からも解放され、夫の建てた総杉造りの家で穏やかに過ごしました。夫の勝手気ままは相変わらずでしたが、心にゆとりができたせいか、それもあまり気にならなくなっていました。
1944年1月14日、死去、享年71歳。
「とかく母の前半生は不幸の連続であった。けれども、今日ただ一つ私の心の慰めになっているのは、私が結婚してから、母と妻とが実の親子以上に仲むつまじかったことである。世間でよくいう嫁としゅうとめとのいさかい、憎しみなどというものを私は到底信じ得られず、いまだに絵空事ではないかと思っているぐらいである。
母は、なんでも妻にありのままを打ち明け、いたわり、妻もまたそれがうれしくてたまらないようによく仕えてくれた。貧しいうちにも互いに励まし合い、いつでも二人がいると笑い声が絶えなかった。それがどれほど私の心の支柱になったことか」
(『市村清実践哲学』より)
市村清の妻・幸恵は、ツ子の月命日には必ず義母の好物を作って仏壇に供え、手を合わせていました。そして、市村はその姿を見て、母のことをしみじみと思い出すのでした。
ツ子の人生において、市村の成功した姿を見届けられたことが最高の幸せだったに違いありません。
1918年頃 佐賀県北茂安村の生家前にて、右から父の豊吉、母のツ子、真ん中が清