原口英雄は1886(明治19)年、佐賀の士族であった野口猪吉郎の子として生まれました。明治末期から昭和初期にかけて大蔵官僚、貴族院議員として活躍した森賢吾(1875〜1934)のおいに当たり、市村清が少年時代から信頼していた弁護士・田中虎三郎とも縁続きです。
1912年、清の父豊吉の実姉である原口チヨフの家の養子となり、後に清の実姉タイ(原口家の養女)と結婚しました。
1914年春のこと、英雄は共栄貯金銀行佐賀支店のオープン準備のために、佐賀の養家に帰省していました。同じ頃、佐賀中学の2年生になった清は、チヨフの援助を受けながら原口の家から学校に通っていました。ちなみに、英雄と清は義兄弟の関係になります。
ある日のこと、
「義兄(にい)さん、スミスという外国人が練兵場で飛行機を飛ばすんだ。日本で初めてなんだって。5銭で見られるんだからくれませんか?」
「清、お前は一体自分がどんな身分だと思っているんだ。飛行機なんか、家の窓からだって見られるじゃないか」
虫の居所でも悪かったのか、英雄は清の要求を頑として突っぱねました。
その時の悔しさは、夏休みで実家に帰省してからも消えずに募るばかり。清はそのまま原口の家に戻らず、ついに佐賀中学を中退してしまいました。
賢いと言ってもまだ14歳、幼さゆえの判断であったとも言えましょう。
一方、英雄は清のことが気になっていました。負けん気の強さに見どころを感じていたからです。そして、野菜売りをしながら塾に通っていることを知ると、何とか良い仕事を見つけてやりたいと、田中虎三郎にも相談していました。
そんな時、共栄貯金銀行久留米支店の事務見習員に欠員があると聞き、早速清に連絡。英雄の後押しもあって無事採用となり、清は社会人としての第一歩を踏み出しました。16歳の春のことです。
1917年、英雄は共栄貯金銀行本店の主事(支配人次席)に昇進し、妻タイを伴って東京に移り住みました。翌年、そこへ転がり込んできたのが清です。
清は久留米支店で働くうちに、自分の知識や学力がいかに貧弱なものであるかを思い知らされました。
“勉強がしたい。東京へ行きたい”
辞職覚悟で支店長に自分の気持ちを打ち明けたところ、東京本店転勤という願ってもない展開となり、姉夫婦を頼りに上京したというわけです。
義兄であり、職場の上司でもある英雄は、清にとって誰よりも頼りがいのある存在でした。
半年ほどが過ぎ、独立したいという思いが強くなった清は、姉の家を出て一人暮らしを始めました。中央大学にも合格し、文字通り仕事と学問の日々でしたが、経済的には極めて苦しく、三度の食事にも事欠くありさま。窮乏生活はやがて清の心も体もむしばんでいきました。
幸いにも下宿先の和尚に諭されて、共産主義の呪縛や結核という死の病を乗り越えた清に、一筋の希望の光が差しました。
その頃、日本と中国の合弁銀行である大東銀行設立の話が進んでおり、共栄貯金銀行の常務となった英雄がその推進役として北京に赴任している、という情報が清の耳に入ったのです。
“病の完治には大陸の乾燥した空気の方がいいに違いない。それに、心機一転、新しい土地で挑戦してみたい。よし、大陸へ行こう!”
1922年9月、清は大学を中退し、新たな世界を求めて、英雄のいる北京を目指したのでした。
さて、市村清にとって原口英雄は、特に青年期における恩人であったことは間違いありません。
しかし、市村の自伝の中で英雄が登場する場面はほんのわずか、飛行機ショーの逸話だけが印象に残ります。(『光は闇をつらぬいて』第2章 無念の五銭玉)
市村は英雄に対して深く恩義を感じていたはずです。にもかかわらず、書くことをためらったのは、‘あの時の悔しさ’が、喉の奥に刺さってなかなか取れない魚の骨のように、いつまでも心に引っかかっていたのかもしれません。
もし、中学を順調に卒業していたら、市村の人生はどうなっていたでしょうか。