市村清の父・豊吉は1866(慶応2)年、佐賀藩の下級武士であった市川虎之丞の子として誕生。7歳の時に佐賀県三養基郡の農民・市村新太郎の養子となり、市村の家を継ぐことになりました。
1892(明治25)年、同じ村の庄屋北原源一郎の次女・ツ子(つね)と結婚、4男3女をもうけました。清は長男で、上に姉が二人いました。
豊吉は身長176cm、体重94kgという当時としては立派な体格の持ち主で、士族の出らしく読み書きの素養があり、弁の立つ人物でしたが、性格は頑固でわがまま、しかもものぐさでした。
武家の血を引く豊吉は、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という『葉隠』の影響もあってか、農業に物足りず、熊本鎮台(九州地方にあった日本陸軍の部隊)の兵士に志願したことがありました。しかし、採用が決まり、妻子を連れて赴任する段になって、養父の新太郎から何もしなくていいから家にいてくれと懇願され、入隊を断念したのです。この時に、自分の行きどころを失い、どうにでもなれという心境になってしまったともいえましょう。
日清戦争(1894〜95年)、北清事変(1900〜01年)、日露戦争(1904〜05年)と、延べ7年間軍隊に籍を置きましたが、除隊の時の階級は一等兵のまま。戦場では勇敢に戦っても、兵営生活では気に入らないことや理屈に合わないことにはたとえ上官の命令であっても素直に応じないという相当なひねくれ者だったのです。
除隊してからも生業には身を入れず、魚釣りをしたり、村人たちを集めて軍隊の話をしたり、一日中寝転んで小説本を読みふけったり、朝から久留米や小倉の競馬場に出かけたり、好きなことだけに熱中する気ままな生活を送っていました。
真夏のある日のこと、
「おい、土産だぞ」
豊吉はまるめた新聞紙の包みをツ子に差し出しました。
開いてみると、濡れた新聞紙の中に割りばしが10本あまり入っているだけ。アイスキャンデーが溶けてしまっていることにも気付かずに持ち帰ってきたズボラな夫に、妻はあきれるしかありませんでした。
奇行は数々ありましたが、この出来事は豊吉の記憶にも鮮明に残っていたようで、後年、面白おかしく語っては市村の秘書たちを笑わせていたものです。
毎年暮れになると、本家であるツ子の実家に一族が集まって正月の餅をつく習慣がありましたが、豊吉が手伝うことはありませんでした。相手は庄屋でも、こちらはやせても枯れても武家の家柄というプライドが北原家との付き合いを拒んだのです。
「武士は食わねど高楊枝」といいますが、「食い過ぎて体を壊したやつはいても、食えなくて死んだ者はそういるもんじゃない」というのが豊吉の口癖であり、処世訓でもありました。
ところで、市村の14歳年下の末弟である茂人は、小学2年のある夏の日のことをよく覚えていました。
「おい、遊びに連れて行ってやろうか」
「うん、行こう。どこさい−」
「面白かところ」
そこは家から5kmほど離れた豆津村にある地方競馬場で、豊吉はツ子の小言を恐れて、茂人を出かける口実に使ったのです。
出走の号砲が鳴り、馬たちが疾走していきます。いよいよゴール近くに差し掛かった時、茂人が目にしたのは、馬券を握りしめたこぶしを振り上げて絶叫する、異様な父の姿でした。この瞬間、茂人は“生涯、競馬をやるまい“と決心したといいます。
配当の少ない本命狙いは性に合わなかったようで、いつも一攫千金の大穴狙い。たまには大当たりすることもありましたが、たいていは大外れで、とぼとぼと帰る豊吉の姿がよく見かけられました。
月日は流れ、豊吉が還暦を迎えた頃のこと、大陸に渡って出世した市村からは毎月のようにかなりの仕送りがありました。
大金を手にした豊吉は傾きかけた家の改築を思い立ち、自ら図面を引き、大工たちを指示して、柱も天井も正目の杉材を使った豪華な2階家を建てました。しばらくして、銀行閉鎖で職を失い故郷に戻った市村は、家の新築のために仕送りのすべてを使い果たしたと聞いて、“相変わらずのおやじさまだ” と生活力のない父の消費癖にあきれるばかりでした。
また、相変わらず農作業には身を入れない豊吉でしたが、それまで一人で黙々とやっていたレンコン掘りに十数人の人を雇い、売買も管理するようになりました。そして、困っている人には家計も顧みず売上金を貸すなど面倒見もよかったので、村人の信望を集め、村会議員に推されたこともありました。
1944年、妻・ツ子が病没。豊吉は東京の市村の家に移り住みましたが、相変わらず気ままな生活で、着流しでふらふらと散歩に出かけることもありました。
1947年6月24日、死去、享年81歳。
豊吉の建てた総杉造りの家は、しばらく遠縁の人が住んでいましたが、2001年、市村清生誕100年を記念して、この地を更地にし「市村記念公園」として地元自治体のみやき町に寄贈、現在は近隣の人たちによって管理されています。
さて、偏屈男の父・豊吉について、市村は自著の中で次のように著しています。
「私はこの父から、資質の上だけでなく、処世の心構えについても随分多くのものを受け継いでいる。落はくの身に甘んじながら、さすがに武士の血は争えず、その気骨と窮理の着眼において、凡庸でないものを父は持っていたように思う」
市村が畏敬の念を抱いた「父の教え」については、次の項で紹介したいと思います。
1918年頃 佐賀県北茂安村の生家前にて、右端が父の豊吉、その隣は母のツ子、真ん中が清