市村清ゆかりの人物
  野口壮吉と竹崎八十雄

ゆかりの人物「野口壮吉と竹崎八十雄」について
ご紹介します。

野口壮吉プロフィール
野口壮吉

生没年不明

職業富国徴兵保険会社 久留米支部長

父・豊吉の実弟。市村に保険の仕事を勧めた人物。

市村の人生の岐路に影響を与えた人
竹崎八十雄プロフィール
竹崎八十雄

生没年不明

職業私立大江高等女学校校長

熊本での保険外交の最初の加入者。

市村の人生の岐路に影響を与えた人

壮吉叔父さんの勧めで保険外交員なったボクは単身、熊本で外交の日々。2ヶ月が過ぎても契約が一つも取れないので諦めかけていたときに、根気よく訪問していた竹崎校長が9回目の訪問で保険契約第一号のお客様になってくれたんだ。その後、竹崎校長が友人や知り合いの人を紹介してくれて、次々に契約が成立してボクは、全国1位で表彰されるまでになったよ。仕事は最後まであきらめちゃいけないということを学んだよ。

熊本時代のキーパーソン。
保険外交員の仕事へ導いた人と
最初に契約した人

大東銀行(中国)の閉鎖により失職した市村は、帰国後、熊本で新しい仕事に就きますが、この時、キーパーソンとも言える二人の人物が関わってきます。
1人目のキーパーソンは、市村の父・豊吉の実弟である野口壮吉、市村に保険外交員の仕事を勧めた人物です。
豊吉や壮吉の実父は市川虎之丞という佐賀藩の下級武士でした。1874(明治7)年に江藤新平らが起こした佐賀の乱に反乱軍の一人として参加しましたが、乱が治まると、官憲による一族の処断を恐れて6人いた子供を養子に出し、一家を離散してしまいました。豊吉の兄弟姉妹のその後の消息は、原口家の養女となった姉のチヨフ(原口英雄の養母)と壮吉以外は不明、また、壮吉が養子に入った野口家についても詳細は分かりません。
市村が故郷・佐賀に戻って職探しを始めた頃、野口は富国徴兵保険の久留米支部長でした。
「清さん、保険の外交の仕事をやってみる気はないかね。世間じゃあまりいい仕事に思われていないが、成功すれば大きな仕事だ。全額出来高払いの歩合制だから、契約数が増えれば収入も多くなる。1万円の契約を取れば50円だ」
年老いた両親や幼い弟たちの暮らしを背負っている市村にとって、契約次第で増収になるという話はとても魅力的でした。
「もしやるなら熊本だよ。熊本はまだ未開拓の地だから、成功すれば大金が得られる。清さんの才覚でこの難物を開拓してみないか」
熊本はその頃最も保険思想が普及しにくい所とされていて、富国徴兵保険も販路拡大に苦慮していたのです。叔父の熱心な勧めに市村の心が動きました。
“そんなに難しい仕事ならかえってやりがいがある。この仕事に再起を賭けてみよう”
2人目のキーパーソンは、熊本出身の牧師で教育者であった竹崎八十雄(1875〜1950)、市村の最初の保険契約者となった人物です。
竹崎は札幌農学校予科を卒業後、米国カリフォルニア州のスタンフォード大学や太平洋神学校で学び、帰国後、海老名弾正の推薦で札幌独立キリスト教会の牧師に就任しました。しかし、内村鑑三らと意見が対立して辞任。同志社大学宗教主任を務めた後、熊本女学校(現 熊本フェイス学院高等学校)の校長に就任し、学校の再建に尽力しました。
市村と知り合ったのは、校長就任4年目のことでした。
1927(昭和2)年10月、市村は妻を実家に預けたまま、単身、富国徴兵保険熊本支部に赴任。教師、医者、弁護士など、市内の知識階級をターゲットとして勧誘を開始しました。
もちろん1度や2度の訪問で成功するとは思っていません。間をおいて何度も同じ家を訪ね、夜は訪問した家に手紙を書きました。
しかし、2カ月あまりたっても契約は1件もまとまらず、さすがの市村も精根尽き果てて、東京へ逃げることを考え始めていました。そんな市村を叱咤激励したのが、トランク一つ提げて市村を追って来た妻の幸恵でした。
「一口の契約も取らずに逃げるつもりですか。それではあなたの履歴に傷が付きます。せめて大晦日まで頑張ってください」
翌朝、市村は竹崎の家の前にいました。9度目の訪問です。“今日もまた留守だと言われるに違いない”と弱気になりそうな自分を奮い立たせ、力強く呼び鈴を押しました。
「やあ、来ましたね。待っていましたよ。お上がりなさい」
予想に反して、現れたのは笑顔の竹崎でした。
「市村さん、あなたのようなやり方で契約が取れますか」
「実はまだ一つも取れていないのです」
「そうでしょうね。あなたのやり方は保険外交員らしくなく、紳士的すぎるんです。女中が留守だと言えば、あっさり帰ってしまう。それなのに必ず手紙を下さる。最初はどうせ勧誘だと思って開いてもみなかったんですが、5回、6回と続くと気になって、読ませてもらいました。文字も文章も立派だし、誠意がこもっている。それで家内とも相談して、今度来たら入ろうと決めていたんですよ。
私は教育者ですが、今回はあなたから生きた教訓を受けました。それがうれしいのです」
市村は竹崎の言葉に感動しながら、“自分は事が成就する一歩前で思い迷っていた。成功するも失敗するも紙一重。仕事はあきらめてはいけないのだ”、と改めて肝に銘じていました。
熊本に来てから69日目のこの出来事を、市村は生涯忘れることはありませんでした。
その後、竹崎は友人の五高教授を紹介、その教授は同僚を紹介、同僚は……、契約が次々と成立し、大晦日までに1万3000円(現在の価値に換算すると約800万円)の契約を獲得。年明けには5万円に達する月もあり、全国一の表彰も受けました。
まもなく、市村は熊本を引き払って佐賀に戻り、富国徴兵保険の監督に就きます。これがやがてリコーへの道につながるのですが、それはまた別のお話です。 

ここでも学べる!
野口壮吉と竹崎八十雄

以下のページでも野口壮吉と竹崎八十雄について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜