市村清ゆかりの人物
  大恩寺和尚と白隠禅師

ゆかりの人物「大恩寺和尚と白隠禅師」について
ご紹介します。

大恩寺和尚プロフィール
大恩寺和尚

生没年不明

職業住職

姓名不詳
市村が下宿していた寂静山・大恩寺の当時の住職。寺の創建は寛永元年(1624年)。

市村の人生の岐路に影響を与えた人
白隠禅師プロフィール
白隠禅師

生没年不明

職業禅僧

臨済宗中興の祖と称せられる江戸中期の禅僧
神田の古本屋で偶然白隠禅師の著書の一つである「夜船閑話」を購入し影響を受けた。

市村の人生の岐路に影響を与えた人

東京での極貧生活は、体だけでなく心も病んでしまったんだ。そのとき救ってくれたのが、大恩寺の和尚。貧富の差を嘆いているよりも、まずは生きなくてはと、親身になってくれた。そして、白隠禅師の書物に出会い、体を鍛えて病に勝つことを学び、お陰で見る見るうちに活力が沸いて元気になったんだ。

「世の中は一長一短、まずは生きることだ」、市村を死の淵から救った和尚の言葉と一冊の書

市村は中央大学夜間部に通っていた頃、本郷根津西須賀町(現 文京区)にあった古寺・大恩寺の一室に下宿していました。
大恩寺は山号を寂静山という日蓮宗中山法華経寺の末寺で、1624(寛永元)年に寂静院日賢上人が創建したと伝えられています。由緒は古いですが、山号そのままのひっそりとした破れ寺でした。
市村はそこで仕事と学業の日々を送っていました。といえば聞こえは良いですが、現実は食事にも事欠く耐乏生活。貧富の差を生む資本主義への怒りが共産主義思想へと移行し、ついには無産運動に思いを寄せるという状態の中で、心も体も限界に達していました。
「市村さん、ちょっとわしの部屋まで来なさい」
仕事を休み、部屋の中で布団をかぶって沈み込んでいた市村に、寺の和尚が声を掛けました。
「近頃のあんたは一体どうしたんじゃ? 女にでもほれたんかい?」
「女なんかじゃありません」
「恋でなければ思想問題だな。共産主義というやつか。真理を極めようという気持ちは分からんでもない。しかし、世の中というものは理屈通りにいくものじゃない。何事でも一長一短。思うようにいかんところが面白いんじゃよ」
市村が黙りこくっていると、和尚はしんみりした口調で、
「それよりもわしが心配しているのは、今のあんたの顔色じゃ。肺病にでもなったらどうする。主義とか思想とかいう前に命がなくなってしまうぞ」
肺病と聞いて市村はがく然としました。思い当たる節があったからです。
医者の診察を受けると、やはり右肺が少し冒されていました。しばらくは転地療養でもして安静にしていなさいと医者は言います。しかし、市村にそんな余裕はありません。ただただ布団に潜り込んでじっとしているのみです。
季節は秋から冬へと移り、市村は死の恐怖を抱きながらも、生きたいと必死にもがいていました。そんな時に出合ったのが、神田の古本屋で5銭で買った白隠禅師の書『夜船閑話(やせんかんな)』でした。
白隠慧鶴(はくいんえかく1686〜1769)は日本臨済宗中興の祖とされた江戸中期の禅僧です。駿河国原宿(現 静岡県沼津市原)に生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、42歳の時に仏法の悟りを完成したと言われます。地元に帰って布教を続け、衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまでうたわれました。
白隠は禅修行のやり過ぎで、禅病に冒されたことがありました。その症状は、胸が苦しく、頭に血が上り、脚は冷たく、耳鳴りがして幻聴も起こるというもので、今でいう肺結核と自律神経失調症であったと思われます。
白隠は京都北白川の山中に隠遁していた白幽仙人を訪ねて、「内観の法」「軟酥(なんそ)の法」という二つの瞑想法を授かり、それを実践して病を克服しました。その後、この秘法を基に禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救っています。
この体験を73歳の時に執筆したのが『夜船閑話』です。
『夜船閑話』には次のように記されていました。
〈万物の霊長である人間が病魔に冒されるのは病気を怖れるからだ。自分は病気だと思い込んでしまうから、ますます弱くなり病菌に負けてしまう。病気に勝つためにはまず精神力を旺盛にして病魔を追い払ってしまう自信を持つことが第一である〉
市村に衝撃が走りました。
「世の中のなんの役にも立たずにどっちつかずにブラブラしているくらいなら、一思いに死ぬか、生きるかだ」
絶対安静をやめ、徹底的な抵抗療法を実行すると決意した市村は、翌朝、夜明けとともに起き出し、寒風の吹き渡る街に走り出して行きました。根津権現の境内を抜け、八重垣町から池之端、不忍池を回り、一気に西郷さんの銅像まで駆け上がって深呼吸。一休みすると再び根津権現の社まで駆け戻り、今度は頭から冷水をかぶって、全身をゴシゴシこするのです。
「血を吐いて死ぬか? 治るか?」
5日、10日と続けるうちに、3度の食事も進み、夜もぐっすり眠れるようになって、健康に対する自信がよみがえってきました。
そして、ついに危機を脱したと確信した時、あれほど苦しんだ共産主義の束縛からも解放されている自分を見出したのです。
大恩寺は関東大震災後の1925(大正14)年8月、北区赤羽西に移転。石造りを基調とした都市型の寺院で、中国の自然石でできた三十三観音、ブロンズ製の弁財天など数多くの仏像が祀られ、北区景観百選にも選定されています。

ここでも学べる!
大恩寺和尚と白隠禅師

以下のページでも大恩寺和尚と白隠禅師について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜