北京に着くと、私は大東銀行支配人の林時珍さんの家に同居させてもらった。月給は百二十五元、下宿料はわずか八元だった。それでたいへんなごちそうが毎日出た。朝は五時半に起きて城壁付近を散歩し、余暇には読書にふけり、しかも毎月故郷の母に送金ができた。心身ともに恵まれた楽しい日々が続いた。
大東銀行には日本の大学を出た中国人がたくさんいた。林時珍さんは早大出だったが、一高、東大を養成する三井書院というのがあった。これらの日華両国の若者たちで、日支親善などを課題に真剣な研究討議をしていた。
当時は海軍の五・五・三の比率が日本に押しつけられたころで、日本の膨張に対しては各国とも神経をとがらせていた時代だ。日本は狭い国土に年に百万もの人口がふえている。それが朝鮮から満州、北支へとあふれてくる。そうしても中国は英米の軍縮方針に同調せざるをえない。結局、日華両国はいつの日か戦わざるをえないだろう。そう彼らは言っていた。
シナの国情はといえば、政治は極度に乱れていて、国民は塗炭の苦しみをなめていた。奥地で不作が続くと、北京の大道で人間の売り物が出る。幼児を裸にしてシリをたたきながら「さあ、買わないか」と叫んでいるのを私も見た。小学校の教員の給料が払われず、女の先生がわずかの金で売春をするということまであった。やがて蒋介石の軍隊が広東から攻めのぼってきて統一する下地がすっかりできていたようなものだった。
しかし、私はシナ人の日常に接して、この民族は容易ならざる民族だと感じていた。彼らの考え方は、むやみに夢とか理想とかは口にせず、堅実だ。用事をさせても意外に頭が働き、思いきったことをやる度胸もある。いまこまかくは言えないが、要するにこの数億の民をだれかが結集したらたいへんな国力を生みだすに違いないと思った。
さて、大東銀行で愉快に働いているうちに、私は上海分行の会計主任を命ぜられた。大正十二年だった。それから約五年間を上海で過ごしたが、この期間に私の意思は、もっと世界の情勢について勉強しなければならぬという方向に向いていった。やはり各国人の働きを現実に見た影響であったと思う。酒と犯罪と快楽の都市といわれた上海で、私は酒やタバコはもちろん、女にも目もくれず、ひたすら読書ばかりしていた。銀行での地位も、一年ほどたつと貸付係になり、三年目には支店長代理になった。
そんな私の日常生活が信用を高めたのか、方々から縁談が持ち込まれるようになった。その中の一人に、私がちょっとしたカゼで寝込んだ時にみてもらった松岡という近所のお医者さんがあった。気にいるならぜひ娘をもらってくれまいかという。私には勉強もあったが、胸をやったという潜在意識があるから、健康を理由に断った。すると松岡先生は「医者である私が診察して娘をもらってくれというのだから、これ以上の保証はないじゃありませんか、あなたはもう全快していますよ」といわれた。
それが私にたいへんな自信を与えてくれた。それからは不思議なほどめきめきと太り出し、それが動機で、松岡先生の娘との結婚にも踏み切ったのである。結婚に際してもう一つ気がかりだったことは相手が金持ちの娘で、私の家とつり合わないことだったが、妻は、あまり学問のない母に、実の娘のように仕えてくれ、いまでも十三日の命日には法要をしている。このことは私の終生の幸福だと思っている。
(日本経済新聞:昭和37年2月28日掲載)※原文そのまま