今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2021年5月編―

『母』

—母を思う一念が原動力だった—

5月9日は母の日です。皆さんにとって、“母親”とはどのような存在ですか?

市村清の母・ツ子(ツネ)は、旧姓を北原といい佐賀県北茂安村市原(きたしげやすむら いちばる)にある庄屋の娘でしたが、19歳の時に貧乏な市村家に嫁いでからは、奇人と言われろくに働かない夫・豊吉に代わって家を切り盛りし、7人の子と年老いた養父母の面倒を見てきました。
ツ子は、当時としては大柄な体格だったようですが、気質は素直で愛情にあふれ、グチをこぼしながらも身を粉にして一家を支える忍耐力を持った女性でした。娘時代から学校よりも三味線習いに通う方が好きだったツ子は、貧しい家計のやりくりの間に三味線を弾くこともあったようです。
清は、幼少期から母の苦労する姿を見て来たせいか、母のイメージといえばいつも父にいじめられているみじめな姿ばかり。時に「……母さんの頼りは清さんだけだよ…」と涙にむせび泣くこともありました。子どもながらに清は、“僕はいまに、きっと強くなって、必ずお母さんを幸福にしてあげるぞ!”と自分自身に言い聞かせていました。

後に清は、1959年に発行した三愛会会誌第21号の中で、『母』というタイトルでその思いを寄せています。

……波乱に富んだ人生を送ってきた自分が今あるのも、不幸な母を一日でも早く幸福にしてあげたいという一念が原動力だったと信じている。
若気の至りで共産主義の思想にかぶれ自分を見失いそうになった時、正常な道に引き戻してくれたのは、もし母がこんな自分の姿を見たらどんなにか悲観にくれることだろう…このうえ母を悲しませてはという母を思う一念であった。
母の前半生は不幸の連続だったが、唯一心の慰めになっているのは、私が結婚してから、妻の幸恵と母が実の親子以上に仲睦まじかったことである。世間でいう嫁と姑とのいさかいや憎しみとは到底信じがたく、絵空事ではないかと思っているほどだ。貧しいうちにも互いを励まし合い、いつでも2人がいると笑いが絶えなかった。それがどれほど自分の心の支えになったことか。
母は71歳の高齢で亡くなった。妻は、毎月14日の命日には必ず、母の好きだったものを心を込めて作り、仏壇にお供えをする。その姿を見て、『ああ、今日はお母さんの命日か…』
と懐かしく母を思うのが私のならわしである。

母は幸いにも私が一人前になったのを見届けて満足のうちに他界した。
それでもなお、『もう少しの間でも生きていてほしかった』と思うのは私のあまりに強すぎる望みであろうか。私の瞳から母の映像はいつまでも消えない……。

画像:雪の日のエピソード
1918年頃、佐賀県北茂安村の生家前にて。右端が父の豊吉、その隣は母のツ子、真ん中が清
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜