画像:父と母

第2回父と母

士族出身、きびしい父
貧乏ながらやさしい母

私の父豊吉は、市川虎之丞(墓地佐賀市内長瀬町泰教寺内)という佐賀藩士の子で武士の出である。虎之丞は明治七年、江藤新平の佐賀の乱に関係した人物だと聞かされたが、いろいろ調べてみても確かでないようだから、たぶん低い身分ではなかったかと思われる。豊吉は七歳のとき市村家の養子になった。といっても養子先は農家で、当主新太郎は名字がなかったので、父の旧姓の市川の市をとって市村を名乗ったらしい。市村という姓は、佐賀では珍しい姓である。母は村の庄屋の出だが、根っからの農家の娘で、父と母の考え方は根本的に食い違っていた。たとえば長男である私に向かって、父は「いくら貧乏しても、ふんどしを質においても大学までぐらいはやるから勉強しろ」といっていたし、母は母で「ああは言っても親類中から金を借りている状態で、お前を中学へなんか入れられるわけはない。尋常を卒業したら早く丁稚(でっち)にでもいって職を持ち、生活の安定を考えろ」と、台所の片すみでこんこんと言ってきかせるのが常だった。
父は武士の血をうけたという自負心からか、子供はなぐってもきびしく育てる方で、母は反対にやさしく、そのうえ養祖父の新太郎夫婦にとっては、私は初孫だから母以上に、私の方がてれるようなかわいがり方をした。つまり物心ついたころの私の家庭環境は、貧乏な反面、非常に複雑な構成だったといえる。
私が生まれた明治三十三年には、父は義和団事件に端を発する北清事変で出征中だったが、父はその前の日清戦争とあとの日露戦争にも従軍して前後七年も軍隊にはいっていた。それでも除隊したときには、一等兵で帰って来た。父の友人たちにあとできくと、軍隊時代の父は、上官には始終反抗するし、理屈に合わないことにはテコでも動かない。どこか奇人的な行動をしていたらしい。戦場では勇敢に戦ったらしいが、ふだんは徹底的なスネ者だったという。
さて、私はこんな環境で小学校に通っていたのだが、成績はかなり優秀だった。いなかのことではあるが、当時の通信簿を見ると、一年から六年までずうっと一番で通している。十点満点で、唱歌を除くと全部十点だった、唱歌は「君が代」も満足に歌えない始末だったが、お情けで八点ぐらいついていた。
ところが成績はよかったが、私は学校というところがきらいだった。一年に上がる前に、私の隣の家に二年上の子がいて、私はその子からイロハやアイウエオを教わり、数も二百まで数えられるようになっていた。そんなことが学校へいっても興味が起きず、いやいや通学するもとだったのだろう。それで先生にもずいぶんおこられたり、なぐられたりした。成績のよい子供には「学術優秀ニシテ品行方正」と書いた優秀賞をくれたものだが、私の「品行方正」はつけたりのものだったろう。戦前のことになるが、私が理研の社長になってから、当時の小学校の先生を四人東京へお招きしたことがある。「あのころの私の印象はどんなだったですか」と私がきくと、先生方はこう答えられた。
「いなか者にしては色が白く目の澄んでいる子供でしたね。頭が非常にさえていてとにかく途方もない質問ばかりする。そうしてどう答えるかと、じっと教師の目をにらんでいるので、ちょっとこわい感じだった。何をされるかわからん、という底知れぬものがあって、無気味なお子さんでしたよ」その小学校時代の思い出を一つ二つ次に書いておこう。

(日本経済新聞:昭和37年2月22日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜