画像:保険外交員に

第11回保険外交員に

妻を里に、単身熊本へ
つらくて、夜逃げも考慮

百三十五日間にわたる監房生活から解放されたときは、九月も半ば過ぎてすっかり秋になっていた。十一月に公判が開かれ、送金問題で裁判を受けた結果懲役一年六ヵ月の判決がおりた。私はすぐ上海を引き揚げて控訴した。その結果、むろん何をしたわけではないのだから無罪であった。
けれども銀行はつぶれ、一介の素浪人となった私は久しぶりに帰った故郷で、両親や弟妹をかかえて出直さなければならぬ立場に立ったのである。世間は、パニックのあとであるから、おいそれと就職口があるはずはない。とうとう私は保険の外交に手をつけてみようと思い至った。富国生命の九州支部で聞いてみると、給料はないが出来高払いで、一万円の契約をとれば五十円の割りである。
そのころ妻の実家も上海を引き揚げて長崎に落ち着いていた。そこへ寄ってその話をすると、まさか一生そんなことをやるわけではないでしょうねと言われた。母親などはお金にはなるかもしれないが、大変な商売だという。これには私も少々弱ったが、仕事をやる以上一生を通す覚悟でやるつもりでなければろくなことはできない、と考えていたから、その決意を披歴した。だが、そんなふうに思われる仕事を妻にまでさせるのも気の毒な気がしたので、幸いにまだ子供もないし、申しわけないが家内を引き取ってくれまいかと申し出た。
そしてそのまま、私は妻を里において単身任地の熊本へ向かった。たった一台の自転車が、私の財産のすべてだった。熊本は当時最も保険思想の遅れている所とされていた。保険募集の第一人者といわれた第一相互の渡幸吉さんでさえシッポを巻いたところである。これは普通のやり方ではだめだと考えて、私は学校の先生やお医者さん、弁護士など、土地のインテリ層をねらって募集を始めたのである。朝は八時に宿を出て夜十時ごろまで出歩いたがなかなかむずかしい。
十日ほどすると、長崎に残してきた妻がやってきた。家では親族会議を開き、姉などはこの際別れた方がいいというが、自分はあなたについてどんな苦労をすることも覚悟して来たという。私も力を得て馬力をかけたが、この保険募集という仕事が実に思わぬ難物だったのである。
十一月、十二月とはや六十日が経ったがひと口もまとまらない。収入も一銭もはいらぬ。上海の監房で得た信念もぐらつきそうになってきた。保険募集だから、もちろん一回ですぐとれるとは思っていない。同じところにお百度を踏むのだが「あっ、またあののっぽの勧誘員が来たわよ」などと、若い娘さんまでがまじって聞こえよがしにささやくのが耳にはいる。つくづくいやになってきてしまった。忘れもしない暮れも押しつまった二十三日の土曜日、保険募集を始めてから六十八日目に、精も根もつきはててとうとう私は妻の前にシャッポを脱いだ。
「この暮れの町をうろつくのはもう我慢がならない。東京へ夜逃げだ。お前にはすまないが、東京へ行ったら玉突きのゲーム取りでもなんでもやれ、私も屋台を引っ張る」
「それは結構ですよ、なんでもやりましょう。けれど、あなたはこれを始めるとき、やろうとすればなんでもできないものはないとたいへん強気でしたね。それなのにひと口もとらないでやめるのですか」
「なにをいうんだ、おれの身にもなってみろ」
「それはつらいことはわかるけど、ひと口くらいは取ってください。あなたの履歴に一つも成果のなかった仕事があったことになるのが、くやしくありませんか」
「......」
「このまま熊本にいるのなら恥ずかしいでしょうけれど、東京へ逃げるつもりなら、外聞なんてどうでもいいじゃありませんか」
とうとう私は励まされて、それなら大晦日(おおみそか)の夜十時までやってみようと思い直した。
それがまた一つの壁を破る動機になったのである。

(日本経済新聞:昭和37年3月3日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜