当時(明治末期)佐賀県には県立の中学は佐賀中学と唐津中学の二校しかなかった。私のいた小学校はよほど程度が低かったのだろう、佐賀中にはまだ一人もパスしていなかった。六年のとき、私は校長や受け持ちの先生から、佐賀中を受けてみろとすすめられた。やんちゃではあったが、その程度の信頼は受けていたのであろうか。
この話には、まず母が反対した。かりに中学にはいれたとしても、とても家で学資を出せるわけがない、弟や妹もいるし、早く生活力をつける方がいい――私はあきらめて、居残りの受験勉強にも一日も加わらなかった。ところが六年の終わりに近くなって受け持ちの教師がたずねてきた。受けるだけでも受けてみろ、というのである。両親も折れて、私は佐賀中学を受験した。そしてかなり好成績で合格した。
さて入学となると、制服も本も買わなくてはならない。父にはそんな余裕は全然なかった。しかしせっかく合格したからというので、私は佐賀市に住んでいた伯母(おば)の家に預けられることになった。その伯母がしぶしぶながら服やくつや学用品を買ってくれた。父はすでに、この伯母にもだいぶ借金をしていたらしいのだが、私もこの伯母のおかげで中学生になったのである。
くつというものを私は生まれて初めてはいたが、でき合いのせいか足が痛くてたまらない。子供心にも立場がわかっていたので、代わりを買ってくれとも言えず。そのくつで我慢したが、そのためであろう、私の足のつめや指はいまでも常人よりひどく曲がっている。だがなんといっても、中学生になれたことは誇りであった。学費も背負わされた伯母は終始ぶつぶつ言っていたが丁稚(でっち)小僧にやられるよりは耐えられた。
十四歳の私は、朝早くから起きて多布施川の水をくみ、学校から帰ると、裏のゴミ捨て場のあき地を開墾して畑を作ったりした(そこはいまりっぱな畑になっている)。そしてどうにか二年に進級した。
R・スミスという外人が、佐賀の練兵場で、日本で初めて飛行機を飛ばしたのは、その年の春の ことである。学校でも見学に連れてゆくことになった。観覧料は一人五銭、だがその五銭のために、私は学業を中断するはめになったのだ。伯母の養子は人一倍けちんぼな人だった。
「清、お前はいったいどんな身分だと思っているんだ。人並みの気を起こすな。飛行機なんぞは家の窓からだって見られるじゃないか」
そう言って、どんなにせがんでも五銭の観覧料を許してくれなかった。情けなく、くやしく私は小暗い自室に閉じこもって一日中泣いていた。その無念さは、夏休みで帰省するとまた襲ってきた。あんな思いをしてまで、学校に通うのは、意地が許さなくなってしまった。そしてそのまま、私はついに佐賀の伯母の家に帰らなかったのである。
私は家にいて父の野菜売りの手伝いをすることにした。筑後川を渡って久留米まで七、八町の道を荷車に積んで野菜を卸しにゆくのである。決まって午後の三時ごろ家を出て一本道を車をひいて行くと、ちょうど帰宅する中学生や女学生の群れと出会う。こっちは制服を捨ててつぎはぎの着物にわらじばき、紫のはかまをはいた女学生などが「あれは佐賀中の清さんじゃないの、どうしたんかしら」などとささやいているのを聞くとはずかしさで顔もあげられない。多少色気づいている年ごろである。頭がカッカして非常な苦痛だった。なんとかこの思いからのがれようとして、思いついたのは、もっと早い時間に直接住宅地に売りにいくという手だった。父もお前がやれるならやってみろ、と承知してくれた。それから私は毎日、中学生に会わぬように、野菜車をひいて町へ出かけていった。
(日本経済新聞:昭和37年2月24日掲載)※原文そのまま