今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2021年6月編―

「技能養成学校」

—世界一の技術者に社長以上の給料を—

今年の就活がすでにスタートしていますが、話題となったのは今後企業の浮沈を左右するIT人材の確保で、有望な学生には新人からでも破格の給与で処遇すると報道されていました。やはり「企業は人なり」ですね。

「世界一の技術者をつくれ。 そんな人には社長より多額の給料を払え」
「メーカーは社長以上の高給取りを何人つくったかで決まる」
技術分野の詳しいことは分からない市村清もメーカーにおける技術力の重要性は十分理解していましたので、1955(昭和30)年代に入ると、事あるごとにリコーの部課長会議でも強調するようになりました。
30才代前半まで理研感光紙を販売していた市村は、不具合改良により顧客が満足し売上増に繋がることが分かっていたため、頻繁に販売側の立場から理研の技術部門に向けお客様の要望を伝え改善してもらっていました。
自身の経験からも技術力の向上がメーカーの肝であることを承知していた市村は、1957(昭和32)年、 リコー社内に日本ではまだ珍しかった技能養成学校を設けるのでした。
当時は中学を卒業して就職する者がかなりいた時代でしたので、彼らを一流の技術者に育てようとの趣旨から第一期生に13人が選ばれました。科目は熱処理・金属成分と材料・製図・表面処理・化学などの専門分野、加えて国語・数学・英語・社会など工業高校の教科が組まれていました。
教師には社員の中から選りすぐりの専門家を当て、授業は午後1時から6時まで。午前中は工場で平常の仕事を行っていたため、成果が上がるのは現場ですぐにわかりました。その後8年間ほど毎年10人前後の若者を選抜していましたが、高校進学が盛んになる1960(昭和35)年頃には工業高校卒の新入社員も入学させるようになりました。
市村は困窮の青春時代を送っただけに向学心に燃える若者をことのほか可愛いがり、大学の理工系夜間学部に進学した者には入学金や授業料を全額補助したのでした。その後技能養成学校卒業者の多くは技術や製造部門の課長や部長に昇進して、なかには工場長・研究所長や役員になる者まで現れ、この制度が社員全体のやる気を鼓舞して行ったことは大きなことでした。

技術力を大切に考える市村の姿勢はもの作りの会社として大事なDNAを社内に植え付けましたが、加えて海外の新しい技術を先取りしたことは将来の飛躍への道を切り拓くことになりました。
上述の技能養成学校を設けた翌年の1958年、アメリカの会社が開発した「エレクトロファクス」という新技術を導入し、1963年にはオーストラリアの研究所が開発した湿式電子写真技術を導入するなど先行投資・技術開発したおかげで、1965年に無配転落したリコーの救世主として「電子リコピー」が誕生しました。
<2020年9月 今月の市村清「電子リコピー BS-1」参照>

しかし、電子リコピーの登場は突然“神風”が吹いたわけではなく、10年にも及ぶ技術陣の総力をあげた開発の賜物だったのです。市村が蒔いた種が成長し花咲いた時、まさに会社の窮地を救ったのです。
市村のこの姿勢が無ければリコーはその後存在していなかったかも知れません。

画像:第一期技術養成者の実習記念(大森機械技術研修工場前にて 1957年9月)
第一期技術養成者の実習記念(大森機械技術研修工場前にて 1957年9月)
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜