今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2024年6月編―
もう一人の恩師
~もう一軒おつきあい願えませんか~
6月は、あの大谷選手がエンジン全開となる月です。昨年も6月にホームランを量産しているので期待は高まります。そんな大谷選手の活躍を見るにつけ、もし栗山英樹氏と出会っていなかったら、と考えさせられます。多くの専門家がピッチャーかバッターどちらかに絞らせるべきとの論評だった時に、唯一と言ってもいい、迷うことなく二刀流を勧めたのが栗山氏でした。栗山氏なくして、今の大谷選手の活躍はなかったのではないでしょうか。栗山氏は、間違いなく大谷選手の恩師なのです。
さて、市村清の恩師と言えば、後に千栗八幡宮の宮司にまでなった岡泰雄氏が真っ先に挙げられます。村民の子弟を対象に私塾を開いており、ちょうど佐賀中学を中退し、家の野菜売りを手伝っていた市村の抑えがたい向学心を満たしてくれたのがこの私塾であり、もっと勉強したいと東京へ出るキッカケとなったのも岡先生に出会ったからに他なりません。このように、岡先生と言えば市村の人生に大きな影響を与えた恩師ですが、もう一人恩師と呼ぶ人がいたことをご存じでしょうか。
牟田健作氏です。牟田氏は市村と同じ市原(イチバル)の出身で市村の生家とは目と鼻の先に住んでいました。養父が蓮根の卸し商売をしていたので蓮根堀の入札者である市村の父、豊吉のところにもよく催促にいったものでした。18歳の頃、北茂安村の小学校の教員となり、市村に、習字と作文を教えていました。市村が達筆で文章構成力も秀でていたのは、牟田先生の教えによるものだったのでしょう。再会は、昭和13年に催された北茂安村出身者の郷友会の場でした。市村から話しかけられ、すぐには子供の頃の市村と目の前の口ひげを蓄えた長身痩躯の青年紳士とは一致しませんでしたが、その精悍そうな顔立ちに浮かべている微笑を見ているうちに、25年前の小学生だった市村の面影が重なったのでした。郷友会の会合は和気あいあいのうちに終了しました。
「先生、もう1軒おつきあい願えませんか」市村は同級生数名と、赤坂の料亭で牟田先生を囲んで楽しい一夜を過ごしました。
牟田先生は、その後、時折市村の事務所を訪れるようになり、市村はこの旧師と往来を重ねるうちに、その誠実な人間味とまめな性格を知って自分の会社で働いてもらうことにしました。13年7月に理研光学に入社し、日本橋にあった配給倉庫の所長を任されたのでした。配給所では商品の横流しや帳簿の記帳漏れなどが発生し管理不十分であった状況を、牟田所長が着任後およそ3か月で完全に正常な軌道にのせ市村の期待に応えたのでした。その年の11月に本社の庶務課長に就任すると、それから終戦まで彼は雑件の整理に力を尽くしたのでした。
市村は社員としての牟田を心から信頼し、執務時間以外のときは態度を改めて旧師に対する礼をとるのが常だったといいます。
故郷の恩師に報いる市村の実直な一面をのぞかせる人情話として残っているものです。