今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2021年3月編―
「スカッと さわやか・・・」
―飲料事業への進出—
市村清は事業の基盤となる精密・事務機企業のほかに、その生涯で多くの企業を創業・再建しました。
それらは異業種の企業で、食料品・雑貨、女性ファッション、燃料エネルギー、デパート、時計、リース、ホテル、ドライブイン、などなど。
どれもそれぞれいきさつがあり、やみくもに進出した事業ではありませんが、多角化経営として独特な企業集団は珍しいものでした。今回はその中でも飛びぬけて異色な飲料事業立上げのお話です。
話は市村をひとりの男が訪問した時から始まります。その男の名は佐渡島匡男。福岡市でパチンコ店を経営していました。
「市村社長、実はコカ・コーラの件でお力をお借りしたいとお願いに上がりました。」
佐渡島はこれまでの経緯を切々と説明し始めました。
コカ・コーラが日本に本格進出したのは戦後まもなくで、まずコーラの原液工場を東京に創設し、販売のボトラー選びは日本全国を16のテリトリーに分け、フランチャイズ制をとることにしました。コカ・コーラが若者に人気抜群でその将来性を確信した佐渡島は北九州地区の販売権を獲得しようとコカ・コーラ側の要求である地元の名士達が名を連ねたフランチャイズ会社(日米飲料㈱)を1960(昭和35)年に設立しました。ところがコカ・コーラ側との契約直前となったころ佐渡島と名士達との間で主導権争いが起き、名士達は総退陣してしまったのです。
困り果てた佐渡島が、伝手を頼って市村のところへ事業の肩代わりを懇願に来たという次第でした。
「私は男の意地からもこの事業が発足できれば満足なのです。株の配分も役員人事も企業の主導権については無条件に市村さんにお任せいたします」という佐渡島の純粋な情熱に心を打たれた市村の決意は定まりましたが、はたと誰を責任者にするか迷ってしまったのです。
自分は頻繁には九州へ行けないし、理研光学の役員を送り出す余裕もない。そこで市村が相談したのが、九州大学医学部出身で親友の村山長一でした。村山は、学部は違えど後輩の篠原雷次郎という人物を即座に推薦しました。
しかし、篠原は総退陣した地元名士達の中心人物であった元九州電力社長の奥村茂敏に長年仕えてきた義理があり話を引き受けられぬというのでした。今度は市村が困ってしまいました。
こんな窮状を打開する時、市村はよく単刀直入な行動に出ます。
市村は奥村を直接訪ね、「篠原さんの事業人としての節操を高く買っています。度胸の良さと細心さも合せ持っていることも評価しています。私は故郷九州に事業を創り若者たちに職場を与えたいのです。」と篠原を説得して欲しいと依頼したのでした。これを受けて、奥村も篠原を呼び、「我々が一度こわした事業だが、だからこそ君の手で創り上げてほしいのだ。若者に職場を与え、道を拓くことが君の責務と思うが・・・」
篠原にはもう断る理由がありませんでした。
1962(昭和37)年3月、理研光学工業本社の社長室で市村、篠原、佐渡島の三人が初顔合わせし、固い握手を交わしました。三者三様の人間性がうまく織りなされ、この時を迎えたのです。ここに市村が社長、代表権を持つ副社長に篠原、そして専務に佐渡島という新しい日米飲料㈱の体制が整い、晴れてコカ・コーラとの契約締結に至ったのです。
「スカッと さわやか・・」といえば、コカ・コーラ。
佐渡島の読み通り、その人気は日本での発売から100年経った今も変わりません。