今月の市村清
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“今月の市村清”―2020年10月編―
故郷、佐賀県北茂安町(現:みやき町)の名誉町民になった市村清
市村清が生まれた佐賀県北茂安町は、2005年に北茂安町と中原町、三根町が合併し、現在はみやき町となっています。佐賀県の東部に位置するみやき町は、北部に筑紫山地(脊振山地)があり、南部に筑後川が流れる風光明媚な所です。
市村がのちに“アイデア社長”と呼ばれるに至ったのは、幼少期をこの地で過ごすなかで受けた家族の愛情や友だちとの絆、小・中学校の恩師などからの教えがあったからではないかと思います。
1968年に市村が生涯の幕を下ろすと、翌69年10月、生前の功績を称え、故郷の佐賀県北茂安町は名誉町民の称号を贈りました。
市村と北茂安町との深いつながりは、数あるエピソードからもうかがい知ることが出来ます。
小学校では、遊びやいたずらの面でかなり派手なリーダー格だった清。ある時、友だちと素っ裸で日が暮れるまで川遊びをしたせいで体は冷え切り唇は真っ青。このまま帰ると親から小言を言われてしまうため、「早く温めろ!」と真っ先に昼間の日光で焼けた河原の石に唇を押し付け、元に戻ると皆で軍歌を歌いながら悠々帰宅。
ある時は先生に注意されたことで学校に行くのが嫌になり、連日さぼって床屋の主人と将棋三昧。またある時は授業中に軍歌を歌い出したことで先生から叱られ、罰を受けたくなくて学校から逃げ出し、裏の掘割の丸太橋を渡って追いかけてきた先生を丸太ごと落としてしまいました。
当時の清のことを、小学校の友人はこう振り返っています。
「はじめは目立たない生徒だったが、高学年になるにつれて頭角を現し、5年生になる頃には学業でも日常の行動でも市村に敵う者は一人もいなかった。飛び抜けた存在だった」
そんないたずらっ子の清を、父・豊吉は黙って許してはくれませんでした。先生を丸太ごと掘割に落とした時は、清を墓地の真ん中の大木に括りつけ、泣いて謝るまで許しませんでした。変わり者ではあったものの何をするにも敵わなかった父から、筑後川の土提下の掘割でのうなぎ捕りやスズメの捕り方を教わることで、深い観察眼と先見性、真相を突く合理精神を学びました。
また、父とは真逆に男子の初孫である清を溺愛し愛情深く育ててくれたのは祖父の新太郎でした。祖父のことが大好きだった清でしたが、小学校5年生の時に介抱の甲斐無く他界。人の死の無常さを知ったのもこの時でした。
市村は、実業家として成功を収めてもなお、自分を育ててくれた故郷・佐賀を忘れたことはありませんでした。
市村にとってふるさとは、単に少年期の夢を育んだ地ではなく、貧乏な生活から辛く悔しい思いもたくさんし、そこから生まれた反骨精神が実業家としての道を歩むきっかけにもなった大切な場所でもあったのです。
故郷のために何か恩返しをしたいと思っていた市村は、1957年、祖父・新太郎の五十回忌を前に久しぶりに北茂安町を訪れ、そこで「なるべく若い人たちのためになるような寄付をしたい」と申し出ました。
いろいろ検討した結果、地元の小学校に“市村講堂”が建設され、劇や歌の発表会の場として生徒たちからも大変感謝されたそうです。
故郷・佐賀への恩返しはこれにとどまらず、その後、佐賀県民の役に立つものをと佐賀市に“佐賀県体育館”を寄贈しました。
このような功績から、今でも市村清を知る地元の人からは親しみを込めて「市村先生」と呼ばれています。卒業した小学校には、歴代校長と並んで市村清の肖像写真も飾られています。
北茂安町にとって市村清は、今でも地元のヒーローとして称えられているのです。