今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2019年6月編―
三愛石油の誕生
市村のアイデアは空まで駆ける
戦後、日本の空は官民を問わずすべての航空機の運航が停止されていましたが、1950(昭和25)年に再開を許可する総司令部覚書が出ると日本の航空界はにわかに活気づき、51年、日本航空株式会社(日航)が設立されて再び日本の飛行機が空を飛ぶようになりました。
市村は日航の役員と親しくしていた関係で、日航のために航空機用燃料を供給する事業を立ち上げてくれないかと依頼されていましたが、事情の分からない石油業界に進出するのをためらって断り続けていました。
そこへ、同郷の議員が市村を訪ねてきて、かつての満州燃料廠(しょう)で仕事をしていた人たちの技術力を生かせる事業を考えてほしいと相談されました。即座に市村の脳裏には石油事業立ち上げの件が思い浮かび、それならと石油業界への進出を決心したのです。
1952(昭和27)年6月、石油製品、石油副製品の加工ならびに販売を主な事業目的として「三愛石油株式会社」が誕生しました。
しかし、ガソリンを売るだけの経営は決して楽ではなく、市村は何か良い策はないかと思案に暮れていました。
ある日、市村は時の運輸大臣に誘われてゴルフに出掛け、途中、大臣が羽田空港に用事があって立ち寄ったため、車に残った市村は、何となく空港の風景を眺めていました。
飛行機の離着陸のたびに給油用のタンク車が飛行機に給油している様子を見て、
――この忙しい時代に随分とのんびりしたことをやっているなあ。
そんなことをつぶやきながら、外国に行った時にも同じようなことをやっていたのを思い出し、ふとあるアイデアが頭に浮かびました。
――まてよ。水道のようにホースを引っ張ってきて栓を開けてジャーッと入れれば早いんじゃないかな。それにはホースよりパイプやポンプを地下に埋めておけばもっといい!
運輸大臣にさっそくこの構想を話して内諾をもらうと、すぐさまアイデア実現のため本格的に動き出します。そして、米軍との10カ月にも及ぶ折衝や国内外のライバル企業との競願にも打ち勝ち、空港の片隅に石油タンクを備え、そこからパイプで直接飛行機まで地下を潜らせて送油するというハイドラント(消火栓)システムの工事が完成したのは1955(昭和30)年6月のことでした。
このシステムは当時の世界の実例に照らしても決して引けを取らない、むしろ先駆けといっていいもので、アメリカでも羽田空港より早く実現したのはサンフランシスコ空港だけです。
同年12月、ハイドラントシステムによる初の給油が行われ、三愛石油の給油業務はこうして軌道に乗って成長を続け、一流企業の仲間入りを果たしました。
おわりに…。
市村は子供の頃から飛行機に関心を持っていました。それは中学2年の時に開催されたアメリカ人による航空ショーの入場料5銭がもらえず泣く泣く諦めたという経験からもうかがえますが、1951年に日本の民間機の航行が許可され日航から一番機が飛んだ時、飛行機好きの市村はちゃっかり初乗り客の一人として空の旅を楽しんだとか。
童心に帰ってワクワクしながら外を眺めていただろう市村の姿が思い浮かびます。