今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2019年5月編―
昭和天皇と市村清
“三愛の市村”の名前は陛下の脳裏に刻まれていた
今日、5月1日から元号が新しくなり、令和元年がスタートしました。元号が新しくなった今月に昭和天皇とのエピソードを紹介することとしました。昭和天皇に市村がお金をお貸しした話というのは、あまり知られていないことと思います。
それは、終戦の翌々年(1947年)の夏の午後に市村のところに突然、宮内省から1本の電話がかかってきました。「市村さん、おさしつかえなければ、宮内省までお越し願えないでしょうか」と。いったい何ごとだろうとおそるおそる宮内省を訪ねると侍従長いわく、「昨日、元侍従長の未亡人が宮中で陛下にお会いになったときに、陛下の『どうしているか』のおたずねに生活の困窮を訴えになり、陛下も皇室財産は全部封鎖されているため援助したくてもお出来になれなかったのではないか」と、その場のいきさつを聞かされました。さらに陛下は「・・・・三愛の市村を呼んで、すこしお金を借りることを話してくれないか」と侍従長に言われたそうです。市村が「いかほどでございましょうか」と伺うと侍従長からの返答は「7万円」。大変な額に違いないと思っていた市村は内心ホッとしました。翌日、さっそく7万円を持って宮内省を訪ねると、「市村さん、直ちに御承服いただきまして、ありがとうございます。ですが、この7万円は、いつ返せるかハッキリしないのです。その代りに陛下が何かお手許品を下賜(かし)されると言っておられますが、それで宜しゅうございましょうか。お金のことだけではありません。あなたは宮様方にお尽くしになったり、明治記念館を作られたお礼の心もはいっているのですから」と。これには、市村もびっくり。侍従長に「陛下御みずから、三愛の市村と仰せられたのでございましょうか」と聞くと「そうです。」と言われ、どうして陛下が自分の名前をご存知なのか考えてみると思いあたることがありました。戦後の混乱期、高松宮家の事務次官から連絡を頂き、「高松宮家に払い下げの品があるので、市村さん、買ってくださらないでしょうか」と。さっそく、宮家を訪ね一部を引き取らせていただいた。すると、三笠宮家からも同様のお話を頂き、一部をお譲りいただいた。宮家の台所事情を知って、なんとかお慰めしたいという気持ちになった市村は宮様を築地の料亭にお招きしたこともあったのです。そんなことから陛下の脳裏には“三愛の市村”というイメージが刻みこまれ、このたびの次第に至ったのでしょう。
このときに陛下より賜った品は、タバコ200本と銀台に金の御紋章入りのボンボン入れ。そして大きな包みが2箱。中には、金蒔絵の目のさめるような細工を施した今でいう火鉢(御手あぶり)と徳川の葵の紋が入ったキセル。そして金銀竹筏という、金と銀を使って竹細工のようにして作られた「いかだ舟」の置物でした。皇室全体を思う陛下のお気持ちを感じ取り、市村は辞退することもできませんでした。
終戦直後の日本だったから、生まれたようなエピソードですね。普段、皇室内でのことは多くの人に知られるものではありませんが、当時、両陛下をはじめ皇室の方たちの困窮ぶりを国民に理解していただくことと同時に、陛下御自身もお困りのときに、陛下に仕えた部下に対する慈悲心がいかに大きいものであるかを知ってもらいたいと、12年後の1959年に文芸春秋の誌面で発表しました。
※60年前、上皇陛下が皇太子時代に結婚された慶事に鑑み、終戦直後の皇室状況、昭和天皇のやさしいお人柄を紹介しようと筆を取った市村の寄稿文をもとにしています。