画像:BGむきに転換

第26回BGむきに転換

おしゃれ専門で成功
明治神宮の窮状で相談受ける

私はまず五人の女子学生アルバイトを雇い、彼女らを特定の会社やデパートに派遣した。といってもトイレットの訪問である。腰掛け式のトイレだから、ゆっくりすわって、ご婦人たちのオシャベリをノートしてくるのである。彼女らの集めたデータから、私は戦後女性風俗の特徴をいくつかつかむことができた。
まず家庭の主婦は生活の維持にいっぱいで、購買力の中心は二十代の若いBGに移っていること、その中には上流家庭のお嬢さんがうんといること、しかも恋愛の相手がBGに断然多いこと、彼女らは食べることは家庭でできるし、いわば結婚準備をしているわけで、収入はほとんど自分のオシャレに使っていることなどである。
私はこの現実を元に「三愛」を婦人オシャレ専門店に切り替えようと決心した。そして、店の装飾から商品の選択まで、自分の店の若い女店員の意見をどしどし採用した。専門家の意見はとかくクラシックになって女性購買層の感覚に遊離する面もあるからである。思った通りこのやりかたは非常にアピールした。
その後、世の中がもっと落ち着いてから、女性の下着を専門に売り出してヒットしたのも、このデンである。女は愛する人にみっともない下着はみせたくないだろう。上のオシャレが済めばきっと下着のオシャレに移るに違いないと考えたのだった。
「三愛」の経営が一応成功したころ、私は明治神宮崇敬会代表吉田茂さんの訪問を受けた。この人は首相をした吉田さんと同名のかたで軍需大臣をした人である。明治神宮は戦後、国家の保護を離れ参拝者もなくなってしまった。鷹司宮司以下七十三名の関係者の窮状は見るに見かねるありさまだ。なんとかひとはだぬいでもらえないか、というのであった。社殿は焼失してしまったので、利用できるものは憲法記念館だけだという。
とにかく一度見てきましょう、と言って、吉田さんや鷹司宮司らを待たせて記念館に行ってみると、門から玄関まで一町半もある。玄関の正面にはデンとした菊のご紋章。そこをぶらつきながら、あれこれ考えているうちに思いついたのが、結婚式場をやったらどうだろうというアイデアだった。
戦争のため未婚の人も、また未亡人になった人も多いだろうし、疎開から帰ってくる人は引き揚げ・復員者も大勢いる。こんな時に結婚相談から挙式までいっさいのあっせんをしたら喜ばれるに違いない。成功するかどうかはわからないが、「三愛」も一応落ち着いたのだし、千五百万円損するまでは私が引き受けましょう、といって吉田さんたちの賛成を得た。重役会では「何もこんなときに......社長の物好きにもほどがある」と言って反対されたが、とにかく三愛精神で説き落とし、契約をすませたのは二十二年十月六日のことだった。
明治神宮は十月三十一日に遷座式を行ない、十一月から大祭を行なうのがしきたりであった。日時はあと一ヵ月もないが、どうせやるからにはこれに合わせ、十月三十一日開店披露、十一月一日から営業開始の方針をたてた。それから私の大車輪の活動が始まった。かわらだけでも三百枚はいる、ガラスは四百枚も割れてあき家同然の建物を結婚の盛典をあげられる所にするのだからたいへんだ。幸い外苑に進駐軍がいて、電気は年中無休だったので、床下を工事場にしビロードなどをヤミで仕入れてきては徹夜で作業を進めた。しばふはいも畑となりあき場所には夜の女が大勢たむろしていた。彼女たちに対しても、いきなり追い払うようなことはせず、私は自分で出かけていって、主だった女にあいさつした。神宮の現状や関係者の窮状を話し、私自身も神宮へ奉納するつもりで、損を覚悟でやるのだから、すまないが立ちのいてくれまいか、そう言って頼むと、彼女たちは欣然(きんぜん)として、一銭の立ちのき料も求めず、"仕事場"を引き払っていった。ああいう女たちも、接しかたによってはすなおに人の話をきく人間性は失われていないのだった。仕事は軌道にのり、元侯爵のむすこさんを第一号に、早くも申し込みがぞくぞく続いてきた。

(日本経済新聞:昭和37年3月18日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜