「明治記念館」はこうして突貫工事の強行で予定通りに完成した。十月三十一日、宮様や元宮様方もお招きして盛大な披露宴を催し、翌日から営業を始めることができた。そしてその経営はその月からりっぱに黒字であった。
明治記念館を経営してみて、私が悟ったことがひとつある。それは「もうける」と「もうかる」の違いである。もうけるのはどんなにうまくても限度があるが、もうかるということは無限だ。そして道にのっとってやるのが、「もうかる」ことなのである。
明治神宮の名でやるのだから暴利は絶対いけない。飲食物も三割以上の利をみてはいかんと言いつけてある。それが大衆の心をとらえたのだ。そこに気がつくと私は「三愛」に帰って、三割の利益を半分の一割五分に下げることを命じた。もちろん全員が反対したが、私はこの方が倍にも三倍にも売れるに違いないと主張した。一割五分にして三倍回転すれば四割五分の利益になる勘定だ。その方が安定している方法だと言って納得させ、それが三愛のさらに発展する元となった。カメラのリコーフレックスなどもこの行きかたで、構造なども簡単にして故障のないものをわずか八千三百円で売り出し、それがカメラブームを引き起こす一因となった。
最後に三愛石油のことを書いておこう。三愛石油を創立したのは昭和二十七年だからことしでちょうど十周年である。そのころ誕生した日本航空の柳田社長と松尾専務(現社長)からそのうち航空ガソリンを供給してくれないかという話があった。私はガソリンのことは何も知らないし、あんな危険なものを手がける自信もなかったのでお断りしていた。
やはりそのころ、防衛庁長官になった参議院議員の杉原荒太氏が四、五人の人を連れて幾度もたずねてきた。話をきくとその人たちは杉原氏の実兄のかたたちで満州の燃料廠の幹部をしていた引き揚げ者だった。ガソリンの専門家ばかりだが、何か技術を生かす仕事に資金の援助をしてくれという。みな信用のできる人たちだと感じたので石油会社を作ろうと決心する動機をそのとき得たのである。その場で資本金千五百万円の三愛石油が、経営方針から重役陣までたった十五分で決まった。
けれどもスタートしてみると、ガソリンを売るだけでは経営が苦しい。スタンダード、シェル、カルテックスなどの巨大資本に対するには「三愛」はあまりに弱小すぎる。何か安定策はないかと思っていると、あるとき運輸大臣の村上義一さんに誘われてゴルフに行く途中羽田空港に立ち寄った。村上さんの用事の間、自動車の中でぼんやり空港の風景をながめていると飛行機の横に大きなタンク車を引っぱってきて手押しポンプで給油しているのが目についた。あんな悠長(ゆうちょう)なことをするよりパイプを地下に敷いて水道のようにせんをひねってジャーッとやればいいのに、とふと思いついた。ちょうど羽田空港は拡張期だったから絶好のチャンスだ。
村上さんが用事を終わって帰ってきたとき、私はその思いつきを話してみた。「きみ、ガソリンなんてしろうとがいじるにはあぶない代物(しろもの)だよ」と村上さんは言われたが、私は「原子力だってコントロールできる時代ですよ。やってやれぬことはないでしょう」と引かなかった。村上さんも同意され、私は羽田空港の給油の仕事に手をつけることになった。
(日本経済新聞:昭和37年3月19日掲載)※原文そのまま