○公*販売を始めてから二日ほどたった日、後に代議士に出た真鍋儀十氏が、銀座、日本橋かいわいの有力者四、五人といっしょにたずねてきた。
「市村さん、あなたという人は実にどうも手のつけられないかたですね。あなたの適正価格で銀座、日本橋の商店はみな参っている。警察に抗議しても効果はないし、都の経済局にいって頭を押さえようとしたら、今度は○公*で売る。ヤミ屋を憎む気持ちはわかるが、まじめにほそぼそとやっている零細な店への影響は考えてくれないのですか」
近所の店が困っているときいてさすがにこれはジーンときた。隣人を愛さずして、人を愛すもなにもない。実際、私は自動車で近県に直接行って、生産者とひざを交えて事情を説いたりして、非常に安く仕入れをしていたのだから、近所の店が太刀(たち)打ちできるはずがないのである。それがどんなにお客さんのためになっても人に迷惑をかけるのではなにもならぬわけだ。私は全く返すことばもなく困り抜いていた。
すると二、三日して日本橋の警察署長がとびこんできて「市村さん、あなたが勝った!」と叫んだ。神田の青物市場に都営模範市場は店開きしたが、なんとそこでは○公*はほとんどなく、八割方が、私の唱える〝適正価格〟だったというのだった。それがきっかけで、それから私も〝公然と〟適正価格で売ることになったのである。
後年、田中さんが警視総監になったとき、統幕議長の林敬三氏、国家警察庁長官の斎藤昇氏らと会食したとき、この話が出て「いやあのときはすまなかった。われわれが視察したときは○公*で出して、見えなくなると正札を裏がえして適正価格で売っていたのだそうですよ」といって田中さんが破顔した。「いや、大衆のためにする誠実さに勝つものはありませんよ」とほかの両氏にもほめられた。
ところが不思議なことに、こんなに繁盛していながら、「三愛」の決算はいつも赤字続きだった。いったいどうしたわけだろうといろいろ調べて原因をつきとめてみると、それは、いまだから笑い話のようなものの、武士の商法式の笑えぬ喜劇だったのである。
当時「三愛」は食料品を主に売っていたが、たとえば北海道からさけを仕入れる場合、私一流のやり方で、貸車三両分くらいを東京に持ってくる。仕入値段は八百円だから、少なくとも二百四十万円はもうかるはずだが、売ってみると逆に百数十万円の損になっていた。変に思って調べてみると、それはひと塩のさけだったので、運送中に目方が乾いて半分になったためだった。売るまえにもう一度塩水につけて目方を前通りに戻すものだという常道を知らなかったのだ。そこでさっそく塩水につけたらこんどは逆にビチャビチャになってしまった。
社員連中の中には弁当を食べた後にちょっと売り場の生菓子を詰めて帰るような者もあり、なかには組んで大量に持ち出す社員もいたらしい。食糧事情の極端に悪い時期に、その食糧を社員任せで商売することの愚を悟った私は、直ちに店の縮小を決意した。菊屋橋、浅草橋、日本橋、木挽町の四店を廃止し銀座店だけを残すことにした。そのため七百名の従業員のうち五百名を解雇することがたいへんな苦痛であったが、最も労働問題が先鋭化した時期に、少しの問題も起こさず解決できたことはまことに幸いであった。そのことで真崎元大将から進撃作戦は、たいていの将軍に可能だが、退却作戦は普通の将軍では不可能だ。君は一糸乱れぬ退却作戦を実行したのだから、まさに名将だよとほめられた。
さて、そこで何を売るかが問題となったが、妙案が浮かばない。困りきっていた。
ある日、銀座のある百貨店のような店で、私がトイレにはいっていると、隣の婦人用トイレから話し声が聞こえてきた。BG(ビジネスガール)らしい。聞くともなしに聞いていると、彼氏がきょう大阪からくるので、おこづかいをもらわなくちゃあ......とかなんとかしゃべっている。ははあ、女というものはトイレなんかで秘密のことでもなんでも話すんだな、と私は感じた。銀行会社のトイレは無数にある。ここから、戦後の若い女性の動き方を探れば何か出てくるなと私は思った。
(日本経済新聞:昭和37年3月17日掲載)※原文そのまま
*「○公」は、正確には「公」の字の周囲に○。「公定価格」の意味。