画像:辞意ひるがえす

第22回辞意ひるがえす

また三会社の社長に
理解してくれた大河内先生

十二枚の辞表は、深刻な気持ちになりながらも私は本気で書いたものだった。しかし今日こうして理研の責任者としてやっているのは、私と会社との最後の絆(きずな)を切らしめなかった辻恒彦君の友情によるものである。
「市村君、ほんとは大河内さんの方が困っていられるんだよ。軍も君を支持しているが、銀行団が承知しないんだ。このまま君が全く身を引いては、先生も社会的に批判を受ける。何もあやまることはないから、理研光学一つだけでも残ったらどうだ。君は、先生の弾丸(たま)よけにだってなるといっていたじゃないか」
辻の説得をきいて私はまた深く考えた。袂(たもと)をわかつのはやすいが周囲の嘲笑(ちょうしょう)に耐えながら、先生のためにもう一度尽くすことこそ真の勇気かもしれない。理研の会合では再びすみの方で小さくなっていやな思いをするかもしれないが、そんな場合に、どこまで虚心でいられるか耐えるのも一つの修養だ。そう決心すると「いまさらめめしいじゃありませんか」という妻にも、納得するように話して、理研光学一社だけに残ることにしたのである。
戦争は産業界にも大きな影響を与えた。理研産業も理研ピストンリング、理研工作機械、理研特殊製鋼など七会社を統合して理研重工業をつくることになった。一億五千万円の融資を興銀などの銀行団に申し込んだところが、それを機に日銀の貞弘氏、興銀の松根氏らが理研に乗り込んできた。大河内先生はタナ上げになり、七人の社長が一度にやめることになった。
すると、二、三人の社長たちが私のところへきて「市村君、君なら銀行団や軍の信用もあるのだから、ぜひ君が重工業をやれ」と言う。そうすれば自分たちも犬馬の労をとるともいう。彼らの申し入れはすでに手遅れであったけれども、私としては大河内先生に殉ずる気持ちで理研光学社長の地位も白紙でお任せしてあったから、彼らが擁立してもそれに応ずる気は毛頭なかった。
すると間もなく大河内先生から呼び出しがきた。先生はようやく私の真意を知ってくれたらしく、しみじみとこう言われた。
「君は何も銀行家の下で仕事をやることはないよ。理研光学、飛行機特殊部品、旭精密工業の三社を理研産業団から切り離して市村個人の事業としてやりたまえ。資金は興銀から借り、おりをみて野村証券の手で公開する。五十円の額面が七十円になれば一割経費に使っても三割は君の手に残るだろう。興銀の河上総裁と、野村の飯田清三さんにはよく話してある」
大河内先生にわかっていただいた喜びに勇んで、また私は三つの会社の社長になった。
その後も陸軍特別製鉄の一環として朝鮮の羅興に理研特殊製鉄をつくり、奉天に満州化学工業を建て、私も戦時産業の一端をになって活動したが、そのままやがて終戦となったのである。
さて、ここまで述べてきて私の「履歴書」もやや一段落した。敗戦という事実によって、日本の国情は全く一変したが、戦後の私の体験も、一個人の人生記録というよりは、事業を経営する責任者として、いかに仕事を社会と合致させてゆくかということに重きを置くようになったといえるだろう。与えられた紙数も残り少ないので、戦後については、私の事業を中心に走り書き的なものにとどめることを了とされたい。

(日本経済新聞:昭和37年3月14日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜