大東亜戦争開戦直後の昭和十七年の新年宴会で、大河内先生は全重役を集めて一場の訓示をした。
「今後はいっさいの方針は自分の独裁で決める。何も言わずに盲従してくれ、僕が突撃命令を下してもとやかく言うものは切って捨てる」
私は年齢順に従って末席にいたが、この訓示をきいて「先生も思いあがったものだ、理研産業はどこへゆくか」と思った。そして一言何か言わざるをえないという気になった。
「質問があります」と私は立ちあがって言った。
「突撃命令が出てからとやかく言うやつは切って捨てられてもなんの異議はありませんが、いま突撃すべきか否かについて進言することもいけませんか」
「いかん!」と、先生は私をにらみつけて強い語調で言った。
そのあと、夜の宴会のとき、理研自動車の専務をしていた辻恒彦君が私のところにきて「さっきの質問はまずいぞ、こんな時勢の訓示なんだから、承知しましたと言っておけばいいんだ。とにかく先生のところへいって杯をもらってこいよ」と忠告してくれた。私ももっともだと思ったので、ひとわたりすんだところで立ちあがった。このとき、新潟の工場関係で平重役をしていた石山賢吉氏が横から出てきて私の前にすわった。
「きょうはまことに名訓示でした。偉大な指導者を得た場合には独裁に限ります」などとやっている。とたんに私はむかっと腹が立ってきた。
「石山先生、あなたはジャーナリストだと思っていたら、たいこ持ちもやるんですか」
と言ってしまった。バカヤローッ、とどなったのは大河内先生だった。行きがかり上、私もひくにひけなくなってしまった。
「先生、あまり盲従盲従(猛獣)というと、反対に食いつきますよ」
私にしては一世一代のシャレのつもりで言ったのだが「貴様のようなやせっぽちに歯がたつなら食いついてみろッ」と、先生は右腕を突きだして烈火のごとく怒った。私は杯ももらわず引き下がり、そんなことで先生との間はいよいよ離反していった。
畑製作所はそのころ海軍の管理工場で大船に三万坪(約十万平方メートル)の大工場を造ることになった。第一期工事が終わったとき、社長の私と畑専務とで大河内先生を案内した。それが私と先生との正面衝突になった。「この工場はマスプロになっていないからだめだ」――先生はいきなりそう言って畑さんをしかりつけた。そして帰りの自動車の中で「畑をやめさせろ」と言い出した。その生産品はドイツでさえも改良改善中でいかに性能を良くするかに苦心している段階で量産にはまだなっていない。畑さんもまじめな得難い技術家である。私は絶対に承服する気になれなかった。翌日もまた言われるので「そんなに畑君をやめさせたいなら、まず私をやめさせてその後にしてください」と、私は辞表を出してしまった。
しかし、それは海軍当局の承知するところではなかった。顧問の丹下少将からの連絡によると、橘監督局長や軍務局長から先生のところへ「代表取締役を替える場合は海軍の同意を得てほしい」という強硬申し入れがあったとのことであった。それがまた私の陰の留任運動の結果そうなったように先生の耳にはいったらしい。
「市村君、君は男らしい奴だと思っていたら、陰でひきょうなこともやるんだね。事務局長からの申し入れがその証拠だ」
私はもう先生との仲もおしまいだと感じた。ずいぶんお世話になったかただが、ひきょう呼ばわりをされては溝(みぞ)は深すぎる。ついに意を決して、私は十二枚の辞表をそろえて提出してしまったのである。いわば大見えを切って引き揚げた形だが、さすがに心中はなはだ深刻なものがあった。しかし会社の幹部たちや友人たちがいろいろとなだめてくれても、私はあやまる必要を認めるわけにいかなかった。
(日本経済新聞:昭和37年3月13日掲載)※原文そのまま