軍と密接な仕事をしていた関係で、私は終戦の〝事実〟をわりあいに早く知った。八月十一日にポツダム宣言受諾の方針が世界に向けて放送されたことを知ると、私は夜、自宅に全重役を集めて、戦後に処する方針を検討した。全く見当もつかない大問題で、議論百出したが、工場面ではとうていアメリカの敵ではない、サービス業でゆくほかない、というのが私の考えであった。物を販売する仕事である。日本の製品でもアメリカの製品でも売れるものならなんでもいい。
幸いなことに偶然私の関係していた会社の工場は全部戦災を免れていたので、生産面の光学は江口、旭精密は田原の両常務に任せ、他はあげて新しいサービス業の開拓に当たるという結論を得たのは翌十二日の未明になっていた。
さて、サービス業という方針が決まると、最も大きな問題は地の利を得るかどうかである。戦後の東京はいったいどうなるだろうか。一部には遷都説も飛び、次の中心は渋谷あたりになるだろうなどとも言われていた。私は東京の大地図を壁にかけて毎日じっと地図をみつめ、あれやこれやと想像してみた。
戦前から東京の中心街といえば銀座四丁目である。それはなぜだろう。そう思って地図を見つめていると、隅田川と鉄道と東京湾の線がちょうど三つドモエになって結ばれている点が、銀座四丁目に当たっていることに気づいた。そこには人間の想像などをこえたある必然性がある。やはり銀座四丁目という地点は再び中心地となるに違いない、という確信を、そのとき持ったのであった。
当時の銀座は焼け野原だった。所有権も借地権もバラバラでつかみようがない。いろいろ調べた結果銀座に土地を持っているときいた安田銀行をたずねた。事情を話すと、最初は全く一笑に付された。話をきいた友人や先輩からも無謀だと批判された。
「大百貨店が軒を並べ、伝統のあるしにせが幾軒もある銀座で、性格的にも適しないあなたが商売をやろうなんてムチャだ」というのである。しかし私にはもう一つの気がかりになることがあった。大陸や戦地からすぐにも帰ってくる傘下(さんか)事業の復員者、引き揚げ者の職である。ざっと三百五十人は下らない(幸い時期は私の思い違いとなったが)。私は再三安田銀行をたずねて、その事情を述べた。
「敗戦というきびしい現実の前にこそ、私たちは愛情を持って団結してゆかねばならないと思う。店の名を『三愛』としたのも〝人を愛し、国を愛し、勤めを愛する〟という人道的なスローガンを示しているのです。ぜひ協力を願いたい」
そう言って頼むと初めて安田でも本気になってくれた。そして四丁目のかどの六十九銀行支店の跡地六十五坪(約二百十五平方メートル)を譲ってくれることになった。
だが、それだけでは少し狭すぎるので隣接地の佐野屋というたび屋さんの土地を譲ってもらおうと考え、当主の未亡人にお願いに行った。皇后様のたびも作ったというしにせだけに、この話もずいぶん難航したが、結局譲り受けることができた。
その経緯がちょっと忘れ難いので記しておこう。佐野屋未亡人は最初からガンとして受けつけず、大雪の降る日、世田谷のお宅に幾度目かの足を運んだが会おうともしなかった。そしてその日の午後、私が浅草橋の理研本社にいると、わざわざ断りにきたのである。交通機関も満足でないときだから、未亡人は泥雪だらけになってたずねてきた。すると出迎えに出た私の社の女事務員が、即座に自分のスリッパをぬいではかせ、抱きかかえるようにしてていねいに三階まで案内した。人情紙より薄い世相の中で、この行為が未亡人の心を打ったのだろう。未亡人は私に会うといきなり言った。
「市村さん、実は私はきょうははっきりとお断りするつもりできたのですが、ここへ上がってくる途中で気が変わりました。こういう会社に譲るのでしたら先祖も喜ぶでしょう。無条件でお譲りいたします」
(日本経済新聞:昭和37年3月15日掲載)※原文そのまま