画像:運が向く

第20回運が向く

紙の統制で逆に伸びる
社内に「つけあがる市村」の声

翌十三年になると、紙の自主統制が始まった。雑誌は半減、感光紙は二割削減が目標だったようだ。このとき王子から私のところへ連絡があって、ちょっと来てくれという。何事だろうと思っていってみると
「北村工場長が不良紙を量産したとき、あなたの方は納入先から文句を言われながら、私の方には何も言ってこなかった。こんど紙が統制になりますが、あのときのお礼に、理研には逆に三割増しましょう」
と言われた。北村さんのときは実は私も全く困ったのだったが、まさか、それが営業面での大きなプラスになって返ってこようとは思わなかった。そのうえ、引き取ってあった不良紙の残りも、ハルビンの北原という紙屋がうわさを聞いて譲り受けたいと言ってきた。ウォーターマーク(すかし)がはいっていても、満州ではかまわないという。これも紙の不足からポンド十銭五厘で引き取ったものが、四倍以上の四十五銭という値がついたのである。これは時勢の運が私に幸いしたのであったろうが、人のために誠意をつくしたことは必ずよい結果を生む、という信念を私に植えつけた。告げ口の五万円も事実無根とわかり、私はまたにわかに大河内先生の信任を取り戻した。
私の仕事は急激に広がり、感光紙のほかに理研ピストンリング、理研コランダム、富国工業などの重役になった。横須賀にあった海軍関係の畑製作所も、経営がうまくゆかないからと理研に頼んできた。理研で株を八割とり私が社長になった。飛行機特殊部品という会社の社長にもなった。結局私は三つの会社の社長、四つの専務、五つの平重役を兼ね理研の中心的存在になっていた。
理研映画の追憶はちょっとおもしろいので書いておこう。
そのころ、陸軍から話があって宣伝映画を作るためにできたのが、理研科学映画である。この話には大河内先生は反対だった。巣鴨に撮影所を作って発足したが、その落成式にも大河内先生は出席されなかった。文化人や学者が大勢出席し、私がかつてお世話になった〝サロン春〟の女給さんたちをサービス係に呼んだ。その席で、私はたいそうごきげんになり、酔ったあげくにその女給さんにキスしようとしたらしい。ところが、そこは映画会社のお祝いだから、その一コマが映画にとられてしまった。それが当時の文部大臣荒木大将の目にふれたからたまらない。荒木文相からさっそく呼び出し状がきた。非常時だというのにこのざまはなんだというのである。そこで私は言った。
「閣下、非常時でもこういう息抜きはむしろ必要ではないでしょうか」「なにをいうか、落成式に女給を呼ぶとはけしからん」と一喝(いっかつ)されたが、結局この一事が尾をひいて五本目の「無敵海軍の礎」という作品を作りかけたところで私は辞退した。あとは小峯柳多、辻二郎の両君がひきついだが、戦後になってこの両君が戦争映画製作の責で追放され、私はその事件のおかげで追放を免れるという皮肉な結果に終わったのである。
ところで理研コンツェルンの事業はこうして非常に伸びたが、私が十二の重役のイスについたころから「市村は理研コンツェルン内に市村コンツェルンを作ろうとしている」といううわさが立ちはじめた。
大河内先生という人は権力、金力には強いが、お追従(ついしょう)には弱いところのある人だった。殿様出だったからだろう。側近は悪い話はなるべくふせていい話ばかり持ってゆく。その連中が「市村のヤツは最近自分の力を過信し、先生以上に思いあがっている。あの男は気をつけなくてはいけません」などと進言したらしく、私が何か進言すると、言いかたもまずかったのか、先生のゲキリンにふれることがたび重なるようになってきた。

(日本経済新聞:昭和37年3月12日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜