昭和十一年二月に発足した理研感光紙株式会社は、資本金三十五万円、うち払い込み十五万円、残り二十万円は大河内流の知能資本と称するものでかなり負担は重かった。事務所は東京日比谷の美松に置き、私が代表取締役であった。
さんざんいじめぬかれたあとだけに、敵愾心(てきがいしん)を伴って、仕事に対する闘志が火のようにわきあがった。士は己れを知る者のために死す――大河内先生の好意に対しても報いなければ、私の男が立たぬ。私はそれこそ武者ぶるいして立ちあがり、妻も驚くような勢いで仕事に熱中しだした。
まず製品コストを下げることが最初の眼目だった。原紙は三菱から入れていたが、値上がりがひどいので、王子に切りかえようと考え、交渉を始めた。しかし以前に何度となく向こうの申し出を断ったことがあるので、剣もホロロのあいさつだ。後に十条製紙の社長になった西工務部長さんたちの所へお百度を踏んだがラチがあかない。これは思い切って藤原銀次郎さんに当たるほかないと考え、幾度も会見を申し入れた。ようやく「会いましょう」という返事をもらったのは、真夏の暑い日だった。
応接間で待っていると、十分たっても、二十分たっても藤原さんは出てこない。そのうちにうとうとと眠ってしまったらしい。気がつくと、私は応接間のイスの上で二時間半というものぐっすり寝込んでしまっていた。ところがおもしろいもので、この居眠りが商談をまとめるキッカケになったのである。藤原さんは、私のことなどケロリと忘れて工業倶楽部に出かけていたのだった。秘書からの連絡で、藤原さんはえらく恐縮されて、帰ってくると即座に話を引き受けてくれたのである。
「大量生産で良質品を安くつくるのは結構なことじゃないか。江戸川工場で試験的に漉(す)い
てみたらどうか」
ちょうどそこにきていた江戸川工場長に、藤原さんが言った。鶴のひと声だった。
私も北村さんと協力し、約二ヵ月で新製品ができた。しかも単位はポンド十二銭五厘で三菱より二銭安い。たいへんなコストダウンだ。しかも売り出してみると、お得意先の評判もよい。大いに気をよくしていると、やはり仕事というものは油断がならないものだ。
その後大量に注文を出した分に不良紙がでてきたのである。現像をすると斑点が出るのだ。しかも、私の方では百万ポンドの注文をしたのに、大量生産をする王子では一ぺんに五百万ポンドを漉いてしまっていた。むろん責任は北村工場長にあった。
その北村さんがある夜、私の家をたずねてきた。
「私は王子直系ではないのです。こんなに不良紙を出して、それが売れなければ当然辞表ものです。家には五人の子がある身だし全く困り果てています。市村さん、なんとかなりませんか」と言うのである。こういう話になると、私は極度に人情もろい男だった。どうせ消耗品だ、なんとかなるだろうと思って引き取ってしまった。呉海軍工廠や関東軍司令部などからはさっそく文句がきたのはもちろんのことだったが、私は大河内先生に呼ばれてひどく叱られた。中には「市村が王子の不良紙を使うために、某氏から五万円もらうのを隣のへやにいて聞いた」などと投書をした奴もいた。大河内先生にそれを見せられたとき、私は「そんなものは、新橋と赤坂でのんでしまいましたよ」と答えておいた。
この年の七月、シナ事変が起こり、国内には戦時色が急に濃くなっていった。
(日本経済新聞:昭和37年3月11日掲載)※原文そのまま