私のポケットにはいつでも千円近い金がはいっていた。月給と交際費で八百円、それに福岡の店も、中尾という出入りの魚屋あがりの男にまかせて順調にいっている。"サロン春"では夜までいつづけしても二十円とはかからない。毎日正午になると"サロン春"に通って手品を習ったりして女性たちと遊んで帰る生活が続いた。こういうところへきたらビールぐらいお飲みなさいよ、じゃ、けいこしましょう、といったぐあいで飲むことも覚えた。
だが私にとって、こんな生活は決して楽しいものではなかった。むしろ苦痛をまぎらす戦いだった。だんだん帰宅も夜おそくなり、妻にも申しわけないと感じていた。けれども、考えつめた末の対抗策だから折れるわけにはいかない。かれこれ三ヵ月というもの、私は毎日"サロン春"に通い続けたのである。
とうとう、あいつはいったい何者だろうという疑いが起きた。若いくせに昼日中(ひるひなか)から連日やってきてはハデに金を使って行くのだから、あやしまれない方がおかしい。"サロン春"から築地警察に連絡されて内偵がすすめられ、それが本社の福岡工務部長の耳にはいる。理研が内偵を始める。というようにして、私の行動は洗いざらいわかってしまった。
ある日、私がいつものように昼近くなって出社すると、大河内先生の代理をつとめている福岡工務部長が顔色を変えて呼びとめた。
「市村君、君はうちの執務規定がわかってるだろうな」「ええ、わかっています」「わかっていて君の執務ぶりはなんだ。うわさかと思って調べてみたら。君は三ヵ月近くも毎日"サロン春"に通っている。よくものめのめとそんなことができるなッ」
相当興奮していると見えて、茶わんを持つ手がガタガタふるえている。なんと返事しようかと考えているとき、福岡さんの級友の鵜野という主事が間にはいって、市村君にも何かワケがあるんだろうから私が聞こうと言ってくれた。
私は事のいきさつをありていに鵜野さんに話し、とにかく申しわけないことには違いないから、と辞表を預けてしまった。「とにかくなんとか方法を考えるから"サロン春"だけはやめてくれ」というので私はそれからボンヤリ本を読んだりしてようすを見ていた。大河内先生のさしがねもあったのだろう、それからしばらくして「感光紙部だけは人事権、経理いっさいを切りはなして市村に任せる」という決定が緊急役員会で出された。
こんどは少なくとも部内だけはそっぽを向かない。意のままであるはずだ。事務所もうらの倉庫を改造して一室造ることになった。工事は五月からかかって七月半ばにできあがった。暑い盛りだった。ところが行ってみると、妙な形の冷房装置がついている。当時理研ではアドソール利用の冷房を使っていたが、私の部だけは冷風が下から吹きあげるようになっている。水をまいてもすぐに乾いてほこりが舞いあがっている。とても執務などできる設備ではない。やりゃアがったな、と直感した。私への作為的な工作に違いない。
さっそく永井工務部長(福岡氏は支配人になっていた)に掛け合うと、専門家がやったのだ、文句をいうな、という言い方である。私のふんまんはもう一度爆発し、いきなり装置をハンマーでたたきこわしてしまった。すると空気が八方へ吹き出して始末におえない。メチャクチャである。解雇でもなんでもしろ、また"サロン春"通いだ、と私もハラを決めた。すると、このときも鵜野主事が中にはいってくれた。鵜野主事から報告をきいた大河内先生に、私はまもなく呼びつけられた。いよいよ終わりかなと思って行ってみると、しようのないやつだ、という顔をして所長は意外にもさらにいい条件を出してくれたのである。
「感光紙部門を独立の会社にして君にまかせる。好きな所へ事務所を移してやってくれたまえ」
私はこんどはほんとうに感激した。昭和十一年の春、三十六歳のときだった。
(日本経済新聞:昭和37年3月10日掲載)※原文そのまま