「九州、朝鮮、満州の代理店はそのままでよい。本社では感光紙部長とする。月給、交際費はじゅうぶん出す。成績次第で洋行もさせ、やがては重役にもする」
大河内先生が示された条件というのは、だいたいこんなことだった。「士は己を知る者のために死す」という。しかも九州の一代理店にすぎぬ三十五歳の若僧に〝四顧の礼〟の招きであった。組織の中で、私の性格がうまくおさまるかどうか、それは自信がなかったが、やってみようと私は決心した。あまりの優遇にいささかびっくりし、またおれも天下の理研の部長だと思うと内心はなはだ得意でもあった。代理店の方も人にやらせることにし、妻を伴って文字通り勇躍して上京した。
ところが、私を待っていたものは意外な現実であった。大河内さんは私を買ってくれ(月給三百円、交際費五百円をくれた)私の決意もなみなみならぬものがあったが、そのまま順風満帆というほどに世間は甘くなかったのだ。本社勤務の初っぱな、部長とは名ばかりの、数ヵ月のブランク生活に私はぶつかったのである。
牛込の矢来町に小さな家を借りて落ち着き、さて理研に顔を出してみると上から下まで温かく迎えてくれた人は一人もいなかった。廊下で経理部長に会うと、フンと横を向く。用務員までがそ知らぬ顔だ。食堂に行くと、用務員のおばさんまでが、皆に食ぜんやはしを配っているのに私にはくれない。しかたがないから自分でもってきて食べ出すと、横の者がさっと向こうへいってしまう。社内ことごとくが敵、まるで氷の壁にぶつかったようだった。
やっぱりくるんじゃなかった、九州の山ざるがとんだ所へ出てきてしまった、と私はしょげ返った。けんかするのはなんでもないが、そうすれば百人近い店員をもつ代理店の方もやめざるをえなくなる。進退きわまるとはこのことか、と日夜煩悶(はんもん)するだけだった。さらによく観察してみると、あいつは若いからもりもり仕事をするだろう、しかしやがて失敗するに違いない、そのときを逃がさず市村排撃をやろうという策略までできていることに気づいた。かれこれ一週間というもの私は夜も寝られずに考え込んだ。
そしてとどのつまりに思い至った私の〝作戦〟は、なんにもしなかったらどうだろう、ということだった。とにかく私はいなか者だ、東京の事情は何一つわからない、まず東京の事情を知る必要がある、それが何もしない理由になる。朝から晩まで東京をぶらぶら見て歩いていればいい、半年くらいは持つだろう。そう決めると、私は心配する妻にも事情を説明して、〝ぶらぶら生活〟を始めたのである。
朝はゆっくり寝ぼうして十一時に一応出社、大河内先生の机の前にある自分の席にいくと、先生はもうきている。「おはようございます」といってタバコをつける。これも無聊(ぶりょう)を消すためにおぼえたばかりだ。小一時間ほどボヤッとしてから十二時になると「東京視察にいってきます。お先に失礼」。
行く先は最初は図書館や友人の所だったが、内心悶々(もんもん)の情をいだいているから、本を読んでも頭にはいらず、友人もそうたび重なってはいい顔もしなくなり、仕事をしないということは、たいへんな苦痛であった。そんなある日、銀座の交詢社の横を歩いていると「ランチタイム無料サービス」という看板が目にはいった。〝サロン春〟という店だ。おそるおそるはいってみると、若いきれいな女の子が三、四人ばたばたと私を取り巻いた。
「僕は金と暇なら余るほどあるんだが、ここは長く遊んでいてもいいところかい?」
「ええ、そういう人は大歓迎よ。どんなお相手でもしますわ」
それはそうだろう。いま考えるとおかしくなるが、当時の私にとって格好な場所が銀座裏にあったものである。
(日本経済新聞:昭和37年3月9日掲載)※原文そのまま