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第16回売り込み成功

はじめて二等寝台で帰国
本社から破格の待遇で迎え

この試験に負けてはならぬ、と私は思った。こちらもなんらかの後ろだてをさがさねばならぬ。四方八方を飛び回って、鉄道部長の村上義一理事を訪れると、次長の佐藤広次郎氏も出てきた。あの岸本という奴はだいぶ思いあがった行きすぎた奴らしい、人間の目は横についているから文書もタテ書きよりヨコ書きに統一しようなどといっている、気に食わん野郎だ、と岸本氏の評判はよくない。青写真室の人たちにきいてみても、満州写真工業ができればその室は廃止になるのだから、むろん反感に満ちている。あまり能率化を独断で推進しすぎている人らしいので、これはいけるなという気がした。私は火の玉のように燃えて朝から晩まで各個爆破戦法で説きまわった。そのかいがあったのか、根橋調査局長が「どうも市村の言うことの方が筋が通っていそうだ」と言い出したのである。
いよいよ比較試験になったときには情勢がこんぐらかって、何がなんだかわからなくなっていた。結局、一歩進んでいるものがよかろうという方針に落ちついたのである。写真工業の話は廃案となり、二十八課全部が理研の陽画感光紙を採用することに決まったのはそれから間もないことだった。
ついに私は満鉄という大世帯の攻略に成功したのだ。山崎総務部長にお礼をいわれたとき、つい有頂点になって、「ついでに総裁の名で一札くれませんか」と申し出たらえらく怒られた。が、私は増長したわけではない。うれしかったのである。結局私の方から採用の願書を出して、それに「申請の件了承す」という総裁直接の手紙をもらう形で、林総裁の一札をいただいたが、それこそオニの首でもとったような気持だった。昭和九年十二月初めのことである。
帰国するときは、生まれて初めて二等寝台に乗った。大連の駅には、満鉄の青写真室や文書課の人たちが大勢見送りにきてくれた。あなたのおかげでクビがつながったなどという人もいた。沙河口の駅でも私は係員に起こされてホームに出た。ここにも工場の人々がおみやげを持って出ていてくれた。私は感激のあまり、寝台車の中で一睡もせず朝鮮を縦断して帰ってきた。
この仕事は、大げさにいうと、大満鉄を相手に一個人が打った一芝居だったが、私自身は商売の道にのっとって正しいと思う信念を貫いただけのことである。ましてそれが、理研本社への結びつきになろうなどとは夢にも考えてはいなかったのである。私を最初に認めてくれた根橋調査局長は、大河内正敏先生の親友だった。その後根橋さんが社用で上京したおりに、そのことを大河内先生に話したらしい。
「君はたいした男を代理店に持っているな。満鉄ではいまだに市村という男の話で持ちきりだよ。満鉄にもあんな男がほしいくらいだ」
陽画感光紙の発明者桜井博士も、日ごろ改善策を進言していた私のことを知っていて同感する。とうとう大河内先生が動いて、本社にきて販売の方をやってくれないか、という迎えがきた。私は大感激したけれども、まず世話になっている田中弁護士に相談してみた。すると田中さんは首をかしげた。
「君は感激性が強くて生(き)一本の男だ。大河内さんという人は殿様出の人だから、どうしてもわがままなところがあるだろう。きっと衝突する。それにいまの代理店だって月二千円も純益がでているんだし、まだまだのびる。これもりっぱな事業ではないか」
いちいちもっともだと思うので、私は本社へ行くことはお断りすることにした。ところが、そうなると大河内という人はなおさら呼びたくなる人らしく、二回、三回と言ってくる。とうとう四回目に直接使いの者を寄こしてこれこれの条件ならどうだ、と破格の待遇を出してきた。

(日本経済新聞:昭和37年3月8日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜