画像:再び大陸へ渡る

第15回再び大陸へ渡る

満鉄へ必死に売り込む
競争相手の"不正"をついて

満州の代理権をもらってから、私はいつかは満鉄をものにしようという志をもっていた。満鉄はいうまでもなく当時の満州の産業をぎゅうじる日本の国策会社である。これをとれば、店の業績はいっぺんに大飛躍する。柴田邦輔の友情に感激した勢いで、昭和九年、私は満鉄攻略の決意を秘めて満州に渡った。ほぼ十年ぶりの大陸渡航だった。
大連の満鉄本社をたずねて、私が最初に会った人は、総務部能率課の岸本次長だった。意向を述べるや否や、私は言下に「ダメだ」と拒絶された。満鉄には現在本社だけで二十八の課があり、それぞれ青写真を使っているが、厚紙は王子がいいとか富士がいいとか、くすりは丸屋だ、いやドイツ製に限るとかまちまちの状態だ。それで紙は三菱の七十五ポンド、くすりは名古屋の大島屋一本に決め、近く満鉄と大島屋の半々出資で満州写真工業株式会社を作ることになっている。だから私がそこへ理研のものを持ち込んでも混乱するばかりだからダメなのだ、というのだ。ところがこの大島屋というのは、私と同じ理研の東海地区総代理店をやっている男だった。それが私の地盤と知りながら、陽画でない青写真に統一しようと片棒かついているのは、なにかあるなと直感した。強引な伝手(つて)をたよって運動しているに違いない。調べてみると、大島屋は以前から満鉄の招きで講演をしたり運動していることがわかった。
私は大島屋に厳重な抗議文を送ると同時に、連鎖街の米屋の二階にひと間を借りて長期戦の準備を整えた。大連に近い沙河口工場の青写真関係の人たちも訪れ、実情を調べたりしてからまた岸本次長をたずねた。
「市村さん、満鉄ではいまあなたの人格が問題になっているんだ。あなたのような方は満鉄に入れるわけにはいかない」
いきなりそう出られて、私はちょっとドキリとした。上海での刑事問題でも尾を引いているのかなと思ったのである。ところが岸本氏はいよいよ図に乗って、二十八課に配布するという分厚い書類をとり出した。見ると、理研の陽画感光紙を宣伝している市村という男は、警戒を要する人物だなどと書いてあり、私が大島屋に出した抗議文の写しまで添えられてある。
「すでにこういうことになっているんだ。第一、君は満鉄から招かれたわけでもないのに、大島屋さんに対して満鉄社員を買収した疑いがあるというのはふつごうじゃないか」
私はそれを聞いてホッとした。上海事件が理由ではないのだった。しかしこうなっては満鉄には寄りつけないかもしれぬ、よし、それなら大島屋とこの岸本の関係だけでも洗いざらい皮をはいでやろう、という気になり、大島屋へ抗議したことがなんで僕の人格上の問題なのだ、と開き直った。すると岸本は
「いったいなにを証拠に満鉄社員が買収されているというのか、初めて来ておれの地盤だとはなにごとだ、コミッションでもほしいんだろう」
「あなたのような卑劣漢はない。第一、親展で大島屋に出した手紙の写しがなぜあなたの手元にあるのか、大島屋とくされ縁がある証拠じゃないか」
私はここでもずいぶん大声をあげたらしい。社員が総立ちになり、総務部長の山崎さんが、なにごとかとやってきた。私は、能率課の岸本氏のとっている態度には納得がいかないことを訴え、満鉄本社の青写真室でもよいからとにかく理研の陽画と比較試験をしてもらいたいと山崎総務部長にお願いした。すると山崎さんは、なにを感じたのか、試験をやったうえでどちらかに決めようといってくれたのである。

(日本経済新聞:昭和37年3月7日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜