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第14回成績上がる

一人三役、商売に熱中 従業員優遇策も当たる

名義は吉村商会であったが、初めて自分の店を持った感激に私は燃えていた。向こう三年間は酒もタバコもやめ、マージャン、映画、碁将棋などいっさいの娯楽を排することを誓い、外交もやれば荷造り、配達もやる。妻はお手伝いさん兼事務員だ。保険募集という仕事で苦労しているから、商売は実に楽しい。最初の半年間は名もろくに知られていない店だから苦労したが、半年目からは毎月幾何級数的に売り上げがふえ出した。
感光紙は幅八十センチの十メートル物が一巻きだが、最初は月二百本くらいだったのが半年目から四百本、次の月は八百本、その次は千六百本というふうにふえ、わずか一年で月三千本の売り上げを示すに至ったのである。取り引き先も長崎の三菱造船、大牟田の三井三池、門司鉄道、八幡製鉄などの大口が並んだ。仕事というものは、信用がつき出すとえらいものである。ちょっとかぜをひいたとき世話になったのが縁で、私たちに新しい店舗を世話しようというお医者さんが現われた。井上さんというそのお医者さんの家作で、県庁と市役所の中間、いわば福岡市の目抜き通りにあるりっぱな洋館に、敷金もなしで新しい店を構える機会に恵まれた。そうなると妻と二人ではとても仕事はさばき切れない。小僧さんを雇わねばならなくなった。当時の使用人は高等小学校卒の十六歳で住み込み五円ぐらいが相場だった。
初めて自分で人を使う立場になったとき、私はいろいろ考えた。私のように特別の学歴も人のつながりもなくやってきたものが、今後伸びようとするには、結局従業員が心からの協力をしてくれるかどうかにかかっている。そのためには、彼らの待遇を物質的にも精神的にも他より優遇してやることが必要だ。そこでまず給料は思いきってよそより六割高の八円にする。二割や三割では高いという印象がない。それでも小僧さんを三人雇うとして月九円の節約をすれば足りるのだ。妻はびっくりしたらしいがとにかく納得した。
精神的優遇というのはこうだ。私は店員をどんなに若くても××君と呼び、妻には××さんと呼ばせた。使用人ではない、仕事の協力者という扱いである。食事も三食とも皆でいっしょにする。私は少年のころ伯母(おば)の家で、食べ物の差別に苦しんだことも決して忘れていなかった。食事の点だけは、妻は猛反対して、たまにはあなただけにタイのさしみでもつけたい......などと言ったが、私は承知しなかった。彼らへの愛情は、子供に対する愛情をもってしなければ不徹底だと思ったからである。
これで彼らが働かないはずはない。店主もその細君も皆一心同体なのだから......。はたして彼らはほかでは見られない働きを示し、注文もふえ、するとまた店員もふやすというように伸びて、昭和八年ごろには約五十人の大世帯となっていた。店そのものもすでに吉村でなく、私の名で九州総代理店となり、同時に朝鮮と満州の総代理店ももらった。あとで調べてみると、この時代の私の店の成績は全く群を抜いたものだった。他の代理店主からはよく「市村さんは実に店員の運にめぐまれていますね」などと言われたが、それは運ではなかったのである。
私の店の経営の基本方針は利益三分主義で、一は店員に、一は将来のための積み立て、残りの一を危険負担というふうにしていたが、朝鮮、満州に手を広げるにつれていちばん苦しんだのはやはり金策だった。
ひと口には言えないが、在庫や売り掛けが多くなると、その金策で血みどろになった。中小企業の悲哀である。たまたま代理店会議で上京したとき、上海時代の友人で三井物産にいた柴田邦輔に会ったので、そんな話をすると、即座に二千円の金を「使えよ」と言ってまわしてくれたことがある。私がどう辞退しても彼は受けとろうとしなかった。柴田邦輔の友情を思い出すと、誇張ではなく、いまでも私は目頭が熱くなる。私という人間はそういう性格なのである。

(日本経済新聞:昭和37年3月6日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜