富国生命の佐賀代理店主は吉村という醸造業者だった。相当な資産家で当時の佐賀商工会議所の会頭もしていたが、また日本で初の女博士になった理化学研究所の黒田ちか子さんの実弟である関係から、理研感光紙の九州総代理店も兼営していた。保険募集の仕事も故郷でやってみると、旧知が多いから成績もぐんとあがり、その契約をまとめては吉村さんのところへ持っていくうちに、昵懇(じっこん)になった。
ある日吉村さんが、私のどこに目をつけたのか、感光紙の外交をやってみないかと言い出した。保険の外交よりも天下の理研の発明品を売るのだから、私もだいぶ心が動いたが、吉村さんという人はたいへん金に細かい人なので、すぐには話にのらなかった。ところがしばらくして、ある夜養子の勉さんが私のところへきた。感光紙の売れ行きは非常に悪い。いまの成績では五月の満期にはおそらく解約になるのではないかと思う、外交員もいつかないし、実際は父は焦っているんだ、いまあなたが望めば譲るのじゃないか、というのである。
それで私も本気になり、吉村さんに話を持ちかけてみた。すると、譲ってもいいが自分もかなり元手をかけたから二千円で譲りましょうということになった。最初は一万円の権利と言っていたのだが、何回も何回も交渉の結果、二千円で承知した。ただ理研が一介の保険募集に譲ることを承認するかどうかが問題であった。そこで私は単身理研の意向をきくために上京することにした。
理研の製造販売機関である理化学興業株式会社の稲垣支配人に会ってみると、はたしてケンもホロロのあいさつであった。この人は大河内正敏先生の異母弟に当たる人だが、こういう発明品はちょっとやそっとで売れるものではない、そういうものを専門にやってゆける自信があるのかと相手にしない。ずいぶんねばったが、一保険募集員と代理店の契約はできぬからあきらめて帰りたまえと出てきた。そこで私は、どうせだめなら思い切ったことを言ってやろうと思った。
「いったいこのカタログにはなんと書いてあるのですか、これ以上のものはないと書いてあるじゃないか、それが売れないというのは携わる人の熱と努力がたりないのだ。僕は人のいやがる保険募集でも成功した。仕事の熱意と努力では人に負けないつもりだ。理研は商品も開発するから人材も登用するのかと思ったら、とんだ見そこないでしたよ」
私が大声を出しているところへきたのは常谷感光紙課長であった。私の熱意を感じとってくれたのだろう、けんか別れになりそうな支配人との折衝を引き取ってくれた。私も気を直して再び決意を聞いてもらい、当分は吉村商会の名で仕事をやり、成績があがれば改めて考慮しようという約束をもらって帰郷したのだった。
当時(昭和四年)は不景気のドン底だったので、二千円の保証金を作るのは容易ではなかった。ようやくのことで伯父が千円、田中という弁護士が千円を保証してくれ、吉村さんに払う金も知人から借りたり、いなかの畑を担保に入れたり、自分の貯金を加えたりして払うことができた。
店はやはり福岡に持つことにし、妻や弟を力に、春吉の四十川という住宅地の裏通りに三十五円の家を借りて「理研感光紙九州総代理店」の看板を掲げたが、納屋(なや)の片すみでにぎり飯で引っ越し祝いをやった後には、懐中二百円が残るばかりだった。翌日から店の改装、看板や印刷物の作成と夢中になって働き出した。苦心したのは電話だった。十ヵ月分二十円の保証金がどうしてもはじき出せない。が、これも朝昼晩と三度ずつ電話屋にお百度を踏んで、根気でとうとう保証金なしの電話を借りることができた。
「あんたの根気には負けたよ、しょうがない。しかし番号は縁起が悪くて借り手のつかないのでがまんしな」
そういって出されたのは「四四四四番」という番号だった。
(日本経済新聞:昭和37年3月5日掲載)※原文そのまま