今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2023年8月編―
お互い、勝負に“待った!無し”
~将棋界の友人・升田幸三棋士との出会い~
今、日本の将棋界には“藤井聡太旋風”なるものが巻き起こり、最年少記録を塗り替えています。各地で対局が行われれば、昼食やデザートなど、彼が食べたものが爆発的に売れるといいます。
“藤井効果”で将棋そのものの人気も上がってきているそうですが、市村清もまれにみる将棋好きでした。
有名なエピソードとしては、小学校をさぼって床屋の主人と将棋三昧、大の大人を負かせてしまったり、上海で横領の疑いで監房生活を強いられた際、退屈しのぎに思いついたのが将棋。市村は周りにあるものを駆使して盤と駒を作り、同居の囚人たちと将棋を楽しんだとか。
幼少期から将棋が好きだった市村は、その後、自らのアプローチで知人を介して赤坂の料亭で将棋九段の升田幸三(1918.3.21~1991.4.5)棋士と出会います。升田氏は、1957年の対戦で終生のライバルと言われた大山康晴棋士を倒し、将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時でした。
後に『市村清追悼号』において升田氏は、料亭で初めて会った市村の印象を「非常にやさしい感じの人だった」と言っています。升田氏と市村との交流はその後市村が亡くなるまで続きましたが、同じ追悼号の中で、市村が自分に好意をもってくれた理由として「一匹狼的で、言いたいことも言うしやりたいと思ったことはやるという部分に共通点を感じてのことと思われる」と述べています。
市村は、升田氏に“市村学校”の講師を頼んだり、ご家族を銀座のオフィスに招いたり、日本リース・インターナショナル創設パーティーや銀座のリコー三愛ビル落成パーティーなど事あるごとに招待し、目を掛けていました。
経営者として人を操る市村と、勝負の世界で駒を自由に操る升田氏。まったく違う“使い方”に見えて、どちらも“愛情”が一番大事で、相手を尊重し、相手の気持ちや立場を重んじる事が何より重要だと市村は述べています。
升田氏は、「最後に、一度も駒をまじえることの無かったのが残念である」と追悼しています。
負けず嫌いだった市村ですから、きっと升田九段にも果敢に挑み、「もう一局!」と勝つまで張り合っていたかもしれませんね。