今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2022年3月編―

真心で結ぶ“縁”

~民族と国境を越えて~

3月。桜の開花も間近となり、華やぐこの季節に演出される出会いと別れ。離れてみて気づくその人の大切さもあれば、出会ったときに惹かれることもあります。いずれにしても、人の縁は大事にしたいものです。

市村清も自著(『人の逆をいく法』三愛新書)で、一流の人物は皆、縁を大切にしていると説いています。
市村は事業を通し、あるいは個人的にも縁あって交際している人には、みんな幸福になってもらいたいという願いを持っていました。物質的ではなくても、精神的にだけでも「市村と知り合ってよかった」と思って欲しいと願っていたのです。

戦時中のこと。
市村は、軍の命令で現在の北朝鮮に製鉄工場を建設しました。そのために30万坪の土地を買収するのですが、軍の方針は坪単価50銭で買収するというものでした。しかしその土地は坪単価2円が相場であり、市村はそれを軍に強く抗議しました。そして、「あくまでも、その民族にプラス、それが同時に日本にもプラスという方針を取らなければ駄目だ!」と2円で買収することにしてしまい、しかも買収するときには一軒一軒自ら酒をぶら下げて訪問し理由を説明して協力を仰いだのです。このような丁寧な対応に接したことのない彼らはいたく感激し協力を誓ってくれました。

工場ができてからは、現地の優秀な人を課長や部長に抜擢しました。またある時、現地採用の幹部社員から社長との懇親を打診され、市村は自ら彼らの自宅に赴くことを提案しました。この提案に彼らは異口同音に感激したのでした。当時、北朝鮮の家庭では来客の際その家の主婦や娘は台所にいて座敷には出ない習慣だったのですが、市村が無礼講を発すると最初は恥ずかしそうにしていた妻や娘も心から嬉しそうに生き生きした表情になったといいます。
以降、この地方では来客に対するもてなしが変わり、婦人たちが座敷に出ないという習慣がなくなったそうです。

終戦直後。
怒涛のように共産軍が工場に侵入してきたとき、彼らは「この会社だけは他の会社と違うんだ」と言って、体を張って守ってくれ、そのため現地人1名が死亡、3名が重傷を負いながら、その献身的な働きによって奇跡的に日本人は全員無事に帰国することができたのです。

市村が出会いの縁を大切にし、真心をもって接したことが地元の人たちにも通じたおかげだと言えましょう。
それほどに市村は人と人との出会いとその“縁”を大切にし、そしてその真心は民族と国境を越えて必ず相手に通じるものだと回顧しています。

画像:理研特殊製鐵(株)を設立した頃の市村清 (1942年頃)
理研特殊製鐵(株)を設立した頃の市村清 (1942年頃)
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜