今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2019年8月編―
産声をあげる三愛
空襲警報の下での戦後対応会議
「日本は敗ける。今、自分は何を考え、何をすべきだろう」
1945年8月。6日に広島に、9日には長崎に原爆が投下、そして15日、天皇の「玉音放送」が流れ、日本の敗戦によって太平洋戦争は終わりました。
市村が敗戦の情報をつかんだのはその4日前、11日のことでした。以前軍需の仕事で活動していた際に懇意となった陸軍将校たちから、日本がポツダム宣言を受諾したことを聞いたのです。
戦争が終わる。自分はこれから何をすべきなのだろう。45歳の働き盛りであった市村は、早くも戦後の新しい事業展開に並々ならぬ意欲を見せ始めました。
11日夜、大森馬込にある市村の自邸に自蹊会(三愛会の前身)会員会社の重役陣が集結。厳しい灯火管制の下に締め切った部屋で、彼らは額の汗をぬぐいながら真剣に話し合いました。
ほんとうに戦争が終わるのか、その時どんなことが起こるのか、誰にも見当がつかないため、議論は百出して夜が更けるのも忘れていました。
そんな中で市村は、今まで手掛けていなかった「サービス業」という新しい分野への進出を考え始めていました。
戦争に敗れた以上、日本の工業生産力はガタ落ちになり、戦勝国であるアメリカや連合国に太刀打ちできるはずがない。しかし、物を販売する仕事はこれからさらに重要になるはずだ。国産品はもちろん、米英仏などからの輸入品の販売も自由にやれるようになるだろう、と市村は考えたのです。
幸いにも大河内博士の好意で理研産業団から分離していた市村の事業は大きな戦災を免れて、本社も工場も無事でしたので、理研光学関係は専務に、旭無線工業は常務に一任して操業を続けることとし、残りの役員は全員新しいサービス・販売業の開拓に当たることが決まったのは、翌12日の明け方でした。
「皆さん、ごくろうさまでした。さあ、何もありませんが、召し上がってください」。
妻の幸恵が朝食を整えて皆に声を掛けました。雨戸を開けるとさっと朝日が差し込み、徹夜に疲れた重役たちの顔に生色を蘇らせました。
その時、グラマン機の機影が頭上を抜けていき、猛烈な機銃掃射の音も聞こえてきました。戦争はまだ終わっていなかったのです。
恐らくこんなに早く戦後の方針を検討した企業はなかったのではないでしょうか。
11月、市村は浅草橋に「三愛商事」を設立、サービス業への第一歩を踏み出しました。
『三愛』が産声をあげた瞬間でした。
実は、市村が描いていた本命の場所は銀座4丁目の角(現 三愛ドリームセンター)だったのですが、そこに至るまでにはまだまだ紆余曲折があります。
そのお話はまた別の機会に。