今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2018年10月編―
第2の三愛、西銀座デパートの創設
高速道路下の商店街づくり
“西銀座”と聞くと、日本一多く当たりくじの出る「西銀座チャンスセンター」を思い浮かべる人も多いと思いますが、高度成長の胎動期にあった昭和30年代は、ビル建設などの槌音があちこちに響き、銀座の街並みは近代都市“トーキョー”として大きく変わろうとしていました。
さらに、高速道路の建設が拍車をかけ、西銀座の数寄屋橋をはじめとする銀座周辺のお堀はつぎつぎと埋め立てられ、空中を走る巨大な高速道路が姿を現し始めていました。
そんな中、高速道路下の空間利用事業の話が表面化してきました。そこで、銀座通連合会は“数寄屋橋は銀座の商店で守ろう”と、対策委員会を組織してショッピングセンター建設を計画し、実現に向け都や高速道路公団との折衝に当たっていました。
ところが、工事は思うようにはかどらず、ついには支障が続出。開店の見込みが立たなくなってしまいます。そこへ追い打ちをかけたのが折からの金融引き締め政策でした。融資を約束していた富士銀行から融資を断られ、高速道路公団からは8億円の入居金納入を催促され、ショッピングセンターの建設は行き詰まり状態に…。
困り果てた銀座通連合会副会長の松田信四郎氏(当時、白牡丹社長)は、ある日、“こうなれば三愛の市村清に頼むほかない”と市村のもとを訪ねます。市村に対する銀行の信用には絶大なものがあることを承知してのことでした。
即座に快諾した市村ですが、融資交渉は思いのほか難航しました。富士銀行に17行の協調融資を懇請し引き受けてもらったものの、どうしても三和銀行だけが拒んでいたため、交渉は暗礁に乗り上げてしまったのです。三和銀行は、“このショッピングセンターは商売として成り立たないだろう”と判断していました。
そこで市村は最後の手立てとして、いったん理研光学が融資を受けてショッピングセンターに貸し付けるという形にし、この難局を乗り越えることにしました。
市村の活動によって融資を受けられる見通しがつくと事業はようやく明るさを取り戻し、建設は順調に進んでいきました。
こうして、昭和33年10月1日、「西銀座デパート」は華やかに開店の運びとなったのです。
当初の西銀座デパートには、おしゃれの三愛をはじめ、ハンドバッグの白牡丹、お菓子の月ヶ瀬、靴のワシントン、三笠会館(レストラン)、天一(天ぷら)、東京鳩居堂など、銀座を代表する50以上の老舗が軒を連ね、これほど専門店の集まった百貨店形式の経営形態は全国で初めてでした。開店初日の来客数は他の銀座周辺のデパートをすべて合わせた数を上回り、売り上げは900万円(現在の1億3,000万円ほど)以上だったそうです。
市村はその後、理研光学の取締役であった中井古満雄を常務として西銀座デパートに送り込み、事業の発展に意を尽くしました。
現在は、「西銀座デパート」から「NISHIGINZA」に名前を変え、今でも変わることなく銀座の玄関として店を構えています。