そして、三人の密輸犯との監房生活が始まった。彼らはみな私より年寄だったが、監房では私が先輩であるから「先生、先生」と呼ぶ。
「先生はこの監房ではいちばん頭がいいという評判だが、ひとつわれわれがここを出てからの密輸のいい方法はないものかね」
こんな質問をする。悪人というより、人がよすぎる感じだ。私も退屈していたから「よし、考えてやろう」というわけで、二つ三つ案を出してみると、そんなのはもう試験ずみだとうそぶく。
「じゃあ、こんなのはどうだ。日本製のチリ紙は束にして外から縛ってある。その中をくり抜いてそこへコカインなんか入れるという手は......」
「なるほど、そいつは妙案だ。やはりあんたは頭がいい」と彼らはたちまち私の独創性に感心してしまった。こんなのを三つほどさずけるとすっかり有頂天になって、いずれ出所してひともうけしたらお礼に伺いますと誓ったりした。私どもがそんな話に身を入れるものだから、看守が怒り出し、房の前から動かなくなった。私語は禁じられているのである。
そのうちにまた密輸犯たちが「先生、こう退屈しちゃあかなわねえ、何か考えてくれ」と言い出した。これも一つの試練だと思い、よし、と私は承知した。彼らに話しかけぬように言ってしばらく瞑想(めいそう)にふけった。少年時代に将棋に夢中になったことが、私の頭によみがえってきた。まず墨が必要である。えんぴつでは薄くてよくわからない。静かに目をあけると、どこからともなく煙突のススが舞い降りてきた。これだ、と直感した。ただちに彼らに命じて、ごみのような小さな煤煙(ばいえん)までものがさず集めさせた。それを水洗便所の薄暗い所にためておく。次は盤である。伏せておけばいい。ほうきの藁(わら)の穂を細く裂いて筆をつくり、便所の水で煤煙の練った墨で線を引いた。こんどは駒だ。これは水洗便所のペーパーのシンになっている厚紙に目をつけた。下痢を起こしたことにし、紙はどんどん減らし、一本を使い終わるたびに厚紙をとってふとんの中にしまいこんだ。週に一度のツメ切りのときを利用して、四人が一枚ずつ分担してツメ切りで駒の形に切る。看守はあまり注意していないのだが用心のために足の土踏まずの下にかくしながら工作した。それにまた煤煙の墨で王将、金将と書き入れ、ここに苦心の将棋盤と駒は完成したのである。
それからは毎日将棋をやって暮らした。二人が接近して向き合い、あとの二人は監視役である。ところが夢中になっているうちに、ある日四人で盤を囲んでいると、くつ音もしないのに、目の前に看守長以下四人の看守が突っ立っているではないか。ぎくりとしたがあとの祭り。――私たちは、看守たちのくつ底がゴムに変わっていたことを知らなかったのである。
「お前たちにこんな知恵が出るか、市村の指導に決まっているッ」
というわけで、私はすなおに主犯であることを白状した。その時の拷問は手錠をかけて鉄棒にぶらさげ身体に南京虫(なんきんむし)をはわせるというひどいものだった。生まれつき皮膚の弱い私は、しまいには気が狂うのではないかと思うほどまいった。そしてもうこれ以上がまんできないと思う瞬間、とうとうガックリと気絶してしまったのである。
この時の監房生活で私が得た貴重な体験は、人間は何もないところでも、くふうによってはなんでもできるものだということ、もう一つは、度を越えた苦痛を耐えていると、気が狂う前に人間には気絶という保身の道があるということであった。二つとも、負けるものかという不屈の精神を受け付けた体験である。
(日本経済新聞:昭和37年3月2日掲載)※原文そのまま