私は佐賀県の一農家の子に生まれた。学校へもろくにやってもらえない境遇に育った。立志伝などといえるかどうか知らぬが今日まで紆余(うよ)曲折の道で体験してきた苦労話なら、とても語りつくせないほどある。いまになって思い返すと、生きてゆくための障壁にぶつかって苦しんだ一つ一つの経験が、私の信念というか、処世の哲理と生活信条を形作ってきたようである。
最初に牛の話を一つ書こう。いまだに肝に銘じている、生涯でいちばんくやしかった幼いころの思い出である。
小学校の二年か三年、私は九歳ぐらいだった。貧しいためとても上の学校になぞ行く望みのなかった私に、ある日祖父がこう言った。
「お前は学校の成績がいいけれども、とても上の学校に出してやれそうもない。しかし学校へ行けるひとつの方法を教えてやろう。おじいさんがめすの子牛を一頭買ってやる。お前はそれを一生懸命に育てるのだ。そうすれば、その牛はつぎつぎに子を産んで、お前が中学や大学へ行くころには何頭かにふえるだろう。それを売れば学校に行けるわけだ」
この祖父はまるでなめるように、家中のだれよりも私をかわいがっていたが、どう算段したのか、間もなく一頭の子牛を買ってきてくれた。私はすっかりうれしくなり、それからというものは、夢中になって子牛の世話をした。一銭、二銭のこづかいをもらうと、それをためる。正月やお祭りのときでも遊び道具や見せ物もじっと我慢してこづかいをためた。牛にやるオカラや飼料を買うためである。自分でも草を刈ったりさつま芋のつるを集めて食べさせたりした。幼いながらもあらゆる忍耐を自分に課して牛をかわいがった。
一、二年すると子牛は実にりっぱな雌牛に成長した。そろそろ子も産めるようになったある日のこと、私の家に「シッタツリ」という人がきて、私の牛を持っていくという。私はびっくりした。「この牛はおじいさんから僕がもらって、おこづかいをためて育てたんだ」と、くやしさのあまり執達吏にかみついたのを覚えている。とうとう祖父に「しかたがないのだよ。お国で決められたことなのだから、我慢せい」といわれてあきらめたが、心中ではどうしても納得がいかなかった。
秋の夕暮れ時の道を、たんせいこめた牛が長い影をひいて引かれてゆくのを、涙をこらえながら、村はずれまでついて行き、牛の姿が見えなくなるまで見送っていたが、この出来事のために、なんとなく世の中のことに深い疑問をいだくようになったような気がする。
後年、私が納得のいかないかぎり、権力や金力に対して徹底的な反抗を試みて譲らないようになったのは、この事件などに芽生えの一端を探りうるように思う。
祖父はそれから二年ほどして死んだ。ろくに医者にもかかれなかったのだろう。私はだれよりも かわいがってくれた祖父のために、ほとんど夜の目も寝ずに看病しつづけたが、そのかいはなかった。 私は一人で祖父の墓の前にたたずんで、空を見上げて時をすごすようになった。祖父の死は、人の死 に直面して人生に懐疑をいだいた最初の記憶であり、世の中の不合理に対する反抗心をはぐくんだ牛 の思い出とともに、いまも私の脳裏に深く刻みこまれている古い追憶である。
(日本経済新聞:昭和37年2月21日掲載)※原文そのまま