今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2025年1月編―

年頭あいさつ

―苦境から復活へ―

明けましておめでとうございます。今年、日本は戦後80年という節目を迎えます。遡ること60年、やはり節目といわれた戦後20年、すなわち1965年はリコーが無配を余儀なくされ、市村清にとって屈辱の年の始まりでした。一年のスタートに当たり、三愛会各社に向けた年頭あいさつで、市村はこう綴っています。

日本も戦後20年、人間に例えるならば成年式を迎える年でありますが、その成長ぶりは果たして順調なものであったかどうか、深く顧みる必要があるかと存じます。背丈だけは一人前に育ってはきたものの、内臓と精神面がそれに伴って成長してこなかったために、沢山の欠陥が種々な面で現れてきております。
今年はこれを鍛え直す年にしなければならないと痛感する次第です。
経済面からみますと、年末から正月にかけて企業の倒産が相つぎここしばらくその数は決して減らないでありましょう。企業競争はますます激しく深刻になることは必定であり、これを乗り切るには余程の努力と覚悟が必要と存じます。とても通りいっぺんの努力を傾けるだけでは乗り切れるものでないことを重ねて銘記すべきであります。
(中略)
今年1年私達の前途には種々な困難があるでしょうが、進んでその困難にぶつかっていく気概を決して失いたくないものです。その意味では大いに、やりがいのある年といえましょう。

いかがですか。
この年のちょうど一年前、市村は佐賀中学時代の同級生たちとの再会の場で、リコーの架空販売について忠告を受けました。
にわかには信じがたかったものの、利害関係のない友人達の真情のこもった忠告だけに、市村は素直に受け止めたのです。そして、帰京するとすぐに実態調査を進め、架空販売が予想以上の量に達していることを突き止めたのです。
その後、社外から新たな役員も迎え、経営の改革に着手するも業績は改善せず、秋の総会では3分の減配を実行します。
それでも顕著な回復は見られず、翌年1965年4月の臨時取締役会で無配に踏み切る決断をするのですが、上述の年頭あいさつは、その葛藤の合間に行われたものであり、それは、戦後の日本経済を主題にしながらも、まるで自分の経営を振り返り、自らを叱咤し言い聞かせているような内容になっているのです。

無配を発表して不屈の闘志に火が点いた市村の陣頭指揮により、リコーは僅か2年で復活を遂げました。無配という屈辱の年は、奇跡の復活ロードの始まりであったのです。