今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2020年5月編―

リコー時計誕生

―高野精密工業㈱の再建―

画像:パーティーの席で佐藤大臣と
パーティーの席で佐藤大臣と

「高野精密の再建を引き受けてほしい」
時の通産大臣 佐藤栄作(のちの首相)から市村清に電話があったのは1962(昭和37)年の5月初旬のことでした。
それまで愛知県知事や中京経済界の都市銀行会長・商工会議所会頭・中経連会長などからの度重なる要請を断っていた市村に、いよいよ大臣みずから要請があったのです。
しかし、市村はその要請すら断りました。市村の手がけている事業はその時すでに10社にのぼり、コカ・コーラの創業、ホテル三愛の建設、三愛ドリームセンターの計画・・・と多忙を極めていた最中でした。

高野精密は1899(明治32)年に創設された高野時計製作所の後身で、アメリカの腕時計メーカー・ハミルトンと技術提携するなど中京地区唯一の精密機器工場として栄えていましたが、伊勢湾台風の大被害を受けてから次第に営業不振に陥り、行き詰まった状況に追い込まれていました。

ところが、そんな市村の耳に佐藤大臣の言葉が入ってきました。
『市村って男はもっと大きな人間かと思っていたが、自分の私利私欲にだけ走る男だったのか。』
こう伝え聞いた直情派の市村は、「よし、それなら引き受けてやろうではないか」と熱い血潮が燃えたのでした。男気の強い市村のプライドが許さなかったのでしょうが、多分に佐藤大臣の作戦勝ちというところではないでしょうか。
さて再建はというと、全債権棚上げ依頼や資金の工面など順調に解決していったのですが、労働組合との対決という大きな問題が残っていました。市村以外に誰も再建を引き受けなかった一番の問題は実は尖鋭的な労組の存在だったのです。佐藤大臣の言葉に挑発されて引き受けたはいいが、市村は内心悲愴な決意でいたようです。

市村はまず労組幹部を東京に招いて彼らの言い分を聞くことにしました。
「市村社長はクビ切りをやるつもりですか。」
「いや、クビは一人も切らんよ。会社がこんなになったのは全部経営者に責任がある。従業員に罪はない。」
「理研から何人くらい連れてくるつもりですか。」
「一人も連れて来ないよ。僕のかわりに仕事を見る副社長だけだ。理研から来た社員にいいポストをふさがれたら君たちは働く気になるかね。今回は全重役・全部長にやめてもらうんだ。君たちの出世する道は全部あけてある。部長のポストは君たちの投票で選んでもらうつもりだ。」
「え? 私たちが投票するんですか。」
これには労組幹部のほうが驚いた。会社の職制を組合が投票して決めるなど聞いたことがないし、しかも同意すればその通りやりかねない市村の気構えでした。

結局この突飛な案は実行されなかったのですが、この最初の市村の態度が労組の警戒心を緩め、再建への協調ムードを醸し出したのは事実でした。
労組との間に垣根がなくなると市村は後顧の憂いなく、製造・販売の行き方に陣頭指揮を執り始めたのでした。

画像:三愛会会誌 広告より(1962年12月発行)社
三愛会会誌 広告より(1962年12月発行)

高野精密工業㈱は社名を「リコー時計㈱」と変更し心機一転、労組社員たちは市村に鼓舞されながら短納期で矢継ぎ早にヒット商品を世に送り出し、再建に向け大きな飛躍を遂げて行ったのです。 
しかし、好事魔多し。品質問題が発生しその勢いは頓挫してしまいます。運悪くリコーの業績も悪化の一途を辿った時期と重なったのですが、『人に頼まれて引き受けた再建だから僕の目の黒いうちは手離さぬ』と市村はリコー時計を何があっても守り通したのでした。
その後、リコー時計は新しい経営陣によって合理化が推し進められ、経営基盤を確固たるものとしてリコーグループの大きな一翼を担っていくのです。
『僕の目の黒いうちは・・・』。市村の覚悟と信義を重んじる精神は大きな財産を残したのでした。

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜