今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2019年3月編―
リコーへの道が拓ける
昭和初期の金融恐慌の余波は大陸にも及び、市村の勤めていた大東銀行も直ちに閉鎖。赴任先の上海から失意のうちに帰国しました。しかも、横領の容疑をかけられたまま。(その後、無罪の判決)
一年後。富国徴兵保険の外交員となった市村は、保険の世界では"不毛の地"といわれた熊本県で業績を上げ、故郷佐賀の監督として着任しました。富国生命保険(富国徴兵保険から改称)の佐賀代理店は、老舗醤油醸造元の佐星醤油(さぼししょうゆ)の初代吉村吉郎氏が兼業していた吉村商会といい、理研感光紙の九州総代理店も兼業していました。主人の吉村氏は、佐賀でも有数な資産家で佐賀商工会議所の会頭も務めた人物で、理化学研究所の黒田チカさん(日本初の女性理学博士)の実兄であり、その縁から理研が発明した理研陽画感光紙の代理店になったのです。
市村は佐賀でも順調に実績を上げ、吉村氏とも親しくなりました。
そんなある日のこと、吉村氏が市村の家を訪ねてきて
「市村さん、あなた保険をやめて理研の感光紙を売ってみませんか」
「なんですか、またやぶから棒に……」
「うちで雇った外交員では、うまくいかないんです。あなたなら、保険でもこんなにやれる人だからと思ったので…」
市村は“天下の理研の発明品を売る”ということに少なからず興味があったので、これを機会に本気で感光紙販売の仕事に進んでみようと思いました。
ただし、そこには大きな問題が…。
理研が一介の保険外交員の市村にそう簡単に九州総代理店の権利を認めてくれるとは思えませんでした。
“――よし!それなら直接理研本社に行って交渉してみよう!”
さっそく理研本社に出向いて交渉しましたが、案の定、けんもほろろの門前払い。しかし、負けん気の強い市村は半分やけになって相手にむかって啖呵を切ってしまいます。
「あなたのところのカタログには、これ以上のものはない新製品だと書いてあるじゃないですか!!これはでたらめなんですか!それが売れないというのは、販売する者の熱と努力が足りないからではありませんか。僕なら絶対人に負けない自信がある。それをこう軽くあしらわれるとは…とんだ見損ないでした!」
「なにッ!!生意気を言うなっ!」
お互いけんか腰になってやり合っているところに、一人の課長が仲裁に入りました。そして、当分吉村商会の名で営業を続け、成績が上がれば改めて契約を切り替えるということで話がまとまったのです。
1929(昭和4)年3月。
『理研感光紙九州総代理店吉村商会』と自筆で書かれた木目の小さな看板を見て市村は、人生で初めて持った自分自身の店を前に、感無量になりました。