最初の東京の生活は苦しいものだったが、そのころ私は一つの生活信条を自分に課していた。絶対に他人の世話にはならないという誓いである。月給日前には、金がよくなくなってしまうこともあったが、一食の料金も人から借りることは肯(がえ)んじなかった。本郷の泰恩寺という寺のじめじめした一室を借りていたときのことだ。ある夜、空腹で眠れぬことがあった。何か食うものはないかと思って寝返りを打っていると、まくらがざらざらと音を立てた。これだな、と思いついて破ってみると、はたして古小豆(あずき)がでてきた。さっそく庫裏(くり)へいって、その小豆を炊き始めた。ところがまくらの中でいい加減ひからびているやつだから、なかなか煮えるものではない。ごそごそやっていると寺男にみつかってしまった。
「市村さん、夜中になにしてんだい」
「実は二日ばかりメシを食っていないんです。腹がへって眠れないのでこのしまつです」
「米ならいくらでも寺にあるじゃないか」
「しかし、僕は人の世話になりたくないんです」
「ばかだな、そんなら月給をもらったら、気がすむようにちゃんと返したらいいじゃないか」
そういうと寺男はあきれたような顔をして飯を炊いて食べさせてくれた。
―共産主義の持つ哲理に、衝撃を受け、心身をすりへらすほど思いなやむに至ったのは、私がそんな生活をしながら中央大学の二年生に進んだころのことであった。
私に衝撃を与えたのは、粟津という経済学の先生の講義であった。資本主義にある不合理から貧富の差が激しくなり、それを改革するために共産主義が起こってきたのだと聞いて、私はまるで電気に撃たれたような気がした。食うや食わずの生活の中では、これこそ人類を救う真理ではないかと思われた。さっそく二、三の学友に共産主義に関する本を持っていないか尋ねると、翌日どこのだれとも知らない男が「これを読んでみたまえ、ただし極秘でやるんだよ」といって数冊の本を貸してくれた。
下宿へ帰って読み始めると、私はたちまちこの本のとりこになってしまった。
土地は空気と同じで神の造ったものだ、ここからここまでの空気はオレのものだなどという区別はない、みな平等だ、これはオレの土地だなんていうのはもってのほかだ、というようなことが書いてある。たまたま深川の貧民窟(くつ)へ行くと、つけもののシッポで飯を食っている人がたくさんいる。反対に市内の百貨店などでは大きなダイヤなどをつけて着飾っている客がいる。こんな不合理があるか、真理は共産主義だ、とますますひかれて夜中も眠らずに読みふけった。そしてついに実践運動にはいろうという気持ちがしだいに強く私をゆさぶり始めたのである。
すると、故郷にいる父母のことが最大の苦悩のタネになり出した。もし自分が共産運動にはいって逮捕されたなら、どんなに悲しむだろう。恵まれぬ人たちのために立ち上がるのはよいが、そのために父母を見捨ててよいのだろうか。果ては人生への懐疑が私の頭をかき乱し、泰恩寺の墓地に立って考え悩んだりした。
理想と現実の矛盾に苦しんでいる私に一つの決意を促したのは、姉崎正治(嘲風)という人の書いた「法華経の行者・日蓮」という書だった。
(日本経済新聞:昭和37年2月26日掲載)※原文そのまま