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佐賀時代(1900~1919年)
1900年(明治33年) | 4月4日、佐賀県三養基郡北茂安村(現みやき町)市原で、市村豊吉、ツ子の長男として生まれる。 |
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1907年(明治40年)7歳 | 4月、北茂安小学校に入学、入学から卒業まで常に首席を続ける。![]() 小学校は、ずっと首席で通した。 |
1913年(大正2年)13歳 | 4月、県立佐賀中学に入学。北茂安村から6年生での最初の合格者となる。 |
1914年(大正3年)14歳 | 7月、経済的困窮のため佐賀中学を2年で中退。野菜売りを始める。 |
1916年(大正5年)16歳 | 共栄貯金銀行久留米支店に事務見習いとして採用される。![]() 両親、弟たち(佐賀北茂安の生家にて) この4年後には、一家の柱として両親への仕送りを始めた。 |
サラリーマン時代(1920~1928年)
1920年(大正9年)20歳 | 4月、上京を志し、中央大学専門部(夜間)法科に入学。![]() 中央大学専門部(夜間)法科の学生。 |
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1922年(大正11年)22歳 | 7月、日中合弁の大東銀行に入社するため中央大学法科を3年で中退。 9月、大東銀行の経理係として北京に赴任。その後、上海分行に移り、会計主任、支店長代理、取締役へと進む。 ![]() 日中合弁の大東銀行の経理係として北京に赴任。 |
1925年(大正14年)25歳 | 1月26日、松岡幸恵と結婚。 |
1927年(昭和2年)27歳 | 4月、金融恐慌の影響を受け、大東銀行は閉鎖。 10月、富国徴兵保険株式会社に入社、熊本支部配属。 |
理研時代(1929~1944年)
1929年(昭和4年)29歳 | 3月、富国徴兵保険会社を退社、理化学研究所が開発した理研陽画感光紙の九州総代理店吉村商会の権利を譲り受け、福岡市春吉四十川で独立開業。業績は幾何級数的に伸び、朝鮮、満州の総代理店の権利も獲得する。 |
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1933年(昭和8年)33歳 | 3月、理化学研究所所長の大河内正敏博士から、研究所で発明、開発された技術の企業化を図る理化学興業株式会社の感光紙部長に招聘される。しかし、妬み嫉みで四面楚歌。無策の策を決め込み、銀座のカフェ「サロン春」へ3カ月、昼間から通い続け古参の部長と衝突。大河内所長のはからいで感光紙部の人事権、経理権を任せられるが、周囲の嫉妬は変わらず、再び衝突。 |
1936年(昭和11年)36歳 | 2月6日、大河内所長の再度の好意により、感光紙部を理研感光紙株式会社として創立、代表権を持つ専務取締役に就任(会長大河内正敏、社長空席)。資本金35万円。この日がリコー三愛グループの出発点となる。 ※昭和13年3月、理研光学工業と社名を変更、同38年4月、株式会社リコーと社名を変更し現在に至る。 ※理研感光紙の業績がきわめて顕著だったため、大河内所長の信任ますます深まり、理研関係の会社の重役を続々と兼務し、60社を越える理研コンツェルンの中心的存在となる。 ![]() 理研感光紙(株)が発足。 吉村商会は解散し、理研感光紙(株)福岡支店となる。 |
1937年(昭和12年)37歳 | 11月、旭光学工業株式会社の専務取締役に就任(会長大河内正敏、社長空席)。![]() 旭光学工業の新年祝賀式。 (ここは現在リコー大森事業所となっている) |
1942年(昭和17年)42歳 |
※昭和17年6月、旭無線と社名を変更。同21年10月、旭精密工業と社名を変更。同28年4月、理研光学工業と合併し現在に至る。 ※理研の全重役を集めた新年宴会の席上、大河内所長と正面衝突、12社の重役の辞表を提出。理研自動車の辻恒彦専務の説得と、大河内所長の3度目の親身な扱いで、理研光学工業、飛行機特殊部品、旭無線の3社が理研コンツェルンから切り離され、完全な独立を得る。 |
1943年(昭和18年)43歳 | 7月、朝鮮京城に本社、咸鏡南道の羅興に工場をもつ理研特殊製鉄株式会社を創立、取締役社長に就任。 |
1944年(昭和19年)44歳 | 10月、関連会社7社からなる自蹊会発足。物資不足の中、グループ機関誌『自蹊会報』を発行。![]() 結成された特設防護団。 (左から4人目が市村清) (銀座8丁目の理研光学工業本社前) 11月21日、「物故社員合同慰霊法要」を築地本願寺で営む。 |
サービス業起業時代(1945~1954年)
1945年(昭和20年)45歳 | 8月11日深夜、幹部会議。戦後はサービス業が最適と決める。 8月15日、敗戦。 11月、先の決定を受け、三愛商事を創立。 ※昭和23年8月、株式会社三愛と社名を改め、現在に至る。 ※銀座4丁目角を最適拠点と決め、地権者の安田銀行、足袋の専門店佐野屋と交渉の末、入手。 |
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1946年(昭和21年)46歳 | 8月20日、銀座4丁目の角に新店舗をオープン、食料品を適正価格で売り出し、三愛の名を大いに高める。 ※数年後、食糧品販売の限界を感じ、トイレで得たヒントから女子学生アルバイトによる調査を実施、三愛を婦人オシャレ専門店に業態転換する。 ![]() 銀座に誕生した三愛。 大理石が随所に使われるなど、戦後まもなくに建造されたものとしては 立派なものだった。交通整理をするのはMP。 12月、自蹊会を三愛会と改め、月刊のグループ機関誌『三愛』(現在の『三愛会会誌』)を創刊し、誌上にて「三愛精神」“人を愛し、国を愛し、勤めを愛す”を発表する。 |
1947年(昭和22年)47歳 | 11月、明治神宮からの再建要請で元の憲法記念館を結婚式場明治記念館として経営、大成功をおさめる。![]() 明治記念館創立時の記念撮影。 戦争で荒れ果てた憲法記念館を結婚式場明治記念館として再興した。 |
1950年(昭和25年)50歳 | 6月、道徳再武装運動MRAの日本代表の一員としてスイスの世界大会に出席。帰途60日にわたり欧米各国を視察し、『最近の欧米表情』として出版。 |
1952年(昭和27年)52歳 | 6月、三愛石油株式会社を創立し、取締役社長に就任。 ※航空機への給油にハイドラントシステムを考案し出願するも、内外の石油資本が後から競願、形勢不利となるが、日本の空の玄関は日本人の手でやるべきであるとGHQに直訴、羽田空港での給油権をとる。 ![]() 三愛石油羽田営業所開設式にて。 3年後、市村清発案のハイドラント(消火栓)給油システムが稼働した。 |
1953年(昭和28年)53歳 | 11月、三愛精工株式会社を創立し、取締役社長に就任。 ※昭和33年9月、リレー産業と合併し、社名を三愛計器と変更。同38年4月、リコー計器と社名を変更し現在に至る。 |
本格的起業時代(1955~1964年)
1955年(昭和30年)55歳 | 2月、カメラ輸出拡販のため並びに事務機市場の調査と有力カメラ特約店との新規契約のためアメリカを訪問、カメラ輸出の基礎を固める。 6月、羽田空港のハイドラントシステムが完成。 |
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1956年(昭和31年)56歳 | 2月、アメリカのカメラショウに出席、帰途立ち寄ったマイアミ市に日本の桜を寄贈することを決める。 ※桜は病原菌予防のため輸入禁止と判明、代わりに東洋原産のオーキッド300本をマイアミに贈呈。さらに、以後4年がかりで日本庭園を寄贈。イチムラ・パークとして現在も日米親善に役立っている。 ![]() 第5回フォトキナに初参加。 (西ドイツ・ケルン) ![]() 世界一周旅行でマイアミ市に立ち寄り、イチムラ・パーク寄贈者市村は 名誉市民として大歓迎を受ける。 |
1957年(昭和32年)57歳 | 9月、株式会社西銀座デパートの取締役社長に就任。 |
1958年(昭和33年)58歳 | 10月1日、西銀座デパートがオープン。 ※母校北茂安小学校に講堂を寄贈する。 ![]() 母校北茂安小学校に講堂を寄贈、熱烈な歓迎を受ける。 |
1960年(昭和35年)60歳 | 5月、『人の逆をいく法』を出版。 6月、米国フロリダ州マイアミ市から名誉市民の称号を贈られる。 6月、『儲ける経営法・儲かる経営法』を出版。 |
1961年(昭和36年)61歳 | 3月、大阪回生病院で胃潰瘍の手術を受ける。 5月22日、市村遺児育英会発足。 12月、“発明品の普及化に尽くした”功労を認められ、藍綬褒章を受ける。受章者を代表して陛下にお礼の言葉を述べる。 |
1962年(昭和37年)62歳 | 2月、日本経済新聞『私の履歴書』に1カ月間にわたって連載され、大きな反響が寄せられる。 3月、日米飲料株式会社取締役社長に就任、コカ・コーラの北九州地区の販売権を得る。 ※昭和38年3月、コカ・コーラボトリング株式会社に、同48年7月、北九州コカ・コーラボトリング株式会社と社名を変更、平成11年7月、山陽コカ・コーラボトリング株式会社と合併し、コカ・コーラウエストジャパンと社名を変更、その後三笠コカ・コーラボトリング株式会社、近畿コカ・コーラボトリング株式会社を傘下に収め平成18年7月、コカ・コーラウエストホールディングス株式会社と社名変更し現在に至る。 ![]() 午前10時30分に出来上がり、空輸されてきたコカ・コーラ第1号を飲む。 5月、高野精密工業株式会社の取締役社長に就任、再建に乗り出す。 ![]() リコー時計と社名が変更後初めて、5000人近い社員とその家族が集まり慰安会が 開催された。 9月、ハミルトン・リコー時計株式会社を創立し、取締役社長に就任。 |
1963年(昭和38年)63歳 | 1月13日、銀座4丁目角に円筒形のビル三愛ドリームセンター完成、午前零時の開店披露宴が話題となる。![]() 午前0時、三愛ドリームセンターのオープニングセレモニーが 行われた。右上方和光の時計が12時を指している。 3月11日、出身地佐賀県の青少年スポーツ振興のため佐賀市城内公園に体育館を寄贈する。この功労により紺綬褒章を受ける。 |
1964年(昭和39年)64歳 | 2月、三愛運輸株式会社を創立し、取締役社長に就任。 4月、『闘魂ひとすじに』を出版。 5月、『そのものを狙うな』を出版。 9月、欧米事情視察のため幸恵夫人を伴い、50日間にわたり世界を1周。 ![]() 寄贈した佐賀県体育館の落成1周年記念の行事に招かれる。 (同体育館はその後、市村体育館と改称) |
リコー無配・再建時代(1965~1968年)
1965年(昭和40年)65歳 | 2月、『明日への着眼』を出版。 3月、リコー三愛グループの中核である株式会社リコーを無配としたため、世間の非難を浴びながら再建に必死のスタートを切る。 ※札幌市に対する貢献により再度紺綬褒章を受ける。 4月7日、第1回リコー三愛グループ合同入社式が挙行される。 |
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1966年(昭和41年)66歳 | 8月、九州三愛観光株式会社(現三愛観光株式会社)を創立し、取締役社長に就任。 |
1967年(昭和42年)67歳 | 3月18日、「物故社員合同慰霊法要」を芝・増上寺で営む。以後、3年ごとに実施することになる。 7月、東北リコー株式会社を創立し、取締役社長に就任。 8月、三愛不動産株式会社を創立し、取締役社長に就任。 9月、株式会社リコーをわずか2年半で復配、奇跡の不死鳥、不屈の闘魂とあらためて世間の称賛を浴びる。 ![]() リコーの救世主となった電子リコピーBS-1に次ぐ新製品BS-2を 発表(東京会館)。この年の9月、復配にこぎつける |
1968年(昭和43年)68歳 |
![]() リコー三愛グループ合同運動会へ幸恵夫人と。 この日が社員の前に姿を見せた最後となる(東京体育館) 11月17日、食道癌が肝臓にも転移していることが判明、慶応病院に入院。 ![]() タバコをくゆらす市村清。温かさがにじむ。 |